メッセージ   2012年 11月 11日

  「まず神が」
      (ヨハネの手紙第一 4章7〜11節)

 私たちの信仰の始まりは神にある。神がすべてを創造され、私たち人間は神によって生かされている。ところが人間の方が勝手に罪を犯して神から離れてしまった。そこで・・・。

 旧約聖書における礼拝とは、動物の犠牲を捧げることに尽きる。動物の命によって、自分の罪を赦していただく、神との隔たりが取り除かれ、関係が回復される。おびただしく流れる血によって人々は自らの罪深さを知ることになる。そして・・・。

 時満ちて神はひとり子イエス・キリストを動物の犠牲に代わって十字架につけられた。神自らが私たちの罪の身代わりとなってくださったことで、私たちの罪は赦された。私たちはそれを信じるだけでよい、もはや動物の血は必要でなくなった…これは神の側からの一方的な働きかけである。

 座右の銘と言うには大そうだが、生徒や保護者との関わりにおいて「先手必勝」を心がけている。言われたからやる…ではなくて、期待に応えるべく先にこちらから行動する、あるいは配慮としてあらかじめ危険な状況を取り除き環境を整えていく…もちろん状況にもよるのだが、結果として信頼関係が深まり、成長につながっていく=好循環となる。

 神がまず私たちを愛してくださった。そこを始まりとして私たちの信仰生活は成り立っている。その愛に応えるべく、礼拝としての人生や互いに愛し合う生き方が生まれてくる。そして神はそこにおられる。