メッセージ   2012年 9月 16日

 「祈ってくださるイエス様」 
    
(ルカの福音書22章31〜34節)

人はひとりでは生きていけない。つながりによって生きる意味を見出し、支えあうことによってその意味は深まる。家族や周りの方々の支えは人を勇気づけ、さらなる力を与えてくれる。

十字架を前に最後の晩餐においてイエス様はペテロの裏切りを予告された。しかしそれに先立って、そのことも含め、サタンの働き…イエス・キリストの十字架もそうであるが…によって信仰がなくならないように祈ったと語られている。イエス様が私のために祈ってくださる…これは何にも変えられない励ましである。

それにしても、神であるイエスが祈る…福音書には他にもいくつかそのような場面が記されている。わざわざ主イエスが祈らずとも、神は初めから力強く守ってくださっても良さそうなものだが、そこは人の側の自発的な歩みを期待されている。ユダはイエスを裏切ったし、人は信仰から離れる。神様がサタンに許可を与えるという戸惑いは、ヨブ記の冒頭とも重なる。

試練は信仰の表明や恵みへの応答を引き出す。信仰を持って生きるのか否かの決断をうながす機会となる。また恵みへの応答としての生き方を引き出す。助ける立場に立ったり、困難の中にあってなお感謝の思いを持ったり…ペテロ自身、立ち直ったら他の弟子たちを励ます役割を与えられた。挫折を味わったゆえに果たせる使命だと言える。

私たちは試練がないとなかなか祈らない。それではダメだと思う一方、人はそういうものだと自覚するとき、試練自体は喜べなくても、試練のおかげで祈り、神様と深くつながり、結果として豊かな生き方となることに気づかされる。後で振り返ったときに試練さえも感謝に変えられていく。そして…イエス様はそうできるようにと祈ってくださっている。心強いことである。