メッセージ   2012年 7月 29日

 「灰色の信仰」   (使徒の働き8章18〜24節)

 信仰を灰色と表現するのには違和感を覚えるが…。 

 ルールはきちんと運用し守られるべきものである。しかし、時には個々の状況に応じて情状酌量があってもよいと思われるケースもある。とは言え、それはそれで不公平感が高まることになり、判断は難しい。

 神様と人との関係も同様である。罪とその結果の裁きもどこかで線を引く必要がある。しかし聖書を読んでいると、悔い改めることで許された箇所もあれば、悔い改める余地がなく裁きが下されたように思われる場面もある。

この聖書箇所で、魔術師シモンが金で聖霊を与える権威を買い取ろうとした行為を、ペテロは厳しくとがめた。しかし悔い改めて祈れば「赦されるかもしれません」と幅のある言葉をかけている。神様の裁きや結論を私たちは簡単に推し量ることはできないのである。それは、神様が正義と愛の狭間で、ひとり子イエス・キリストを人の罪の身代わりとして十字架にかける、という絶対的切り札を切っことに加え、忍耐の限りを尽くしておられるからである。

私たちの信仰において、白黒がはっきりしない、言わば灰色に見える領域があるのは、神様の愛の広さと私たち人間の側のどうしようもなさのゆえである。神様は一人ひとりに応じて恵みや導きを与え、悔い改めのチャンスも備えてくださっている。神様の忍耐故の裁きにおける灰色の部分に甘えることなく、しかしその幅=愛に感謝しながら、おおらかな信仰生活を送りたい。