メッセージ   2012年 5月 13日

「癒されるということ」 (マルコの福音書9章21〜24節)

イエス様はこの世にあって多くの病む人や障害を持つ人を癒された。しかし、それが目的ではないということからあまりおおっぴらになることを望まれなかった。とは言え「癒し」は旧約聖書においては神様の権威を表すものであり、救い主のしるしと言う意味もあった(出エ15:26イザヤ61:1)。イエス様も癒しと神の国を結びつけて語られた(マタイ12:28)。

聖書の時代において、病や障害は社会からの隔絶を意味することにもなった。したがって癒すことは、単に身体や心のことだけにとどまらず、人間関係の回復や社会復帰へとつながるとても重要なことだったと言える。イエス様は社会から切り離されていたような人々に、直接語りかけ、またふれるといった形で関わられたのである。

さて、この聖書の箇所では、主イエスがおられない状況の中で弟子たちが癒そうとしたができなかったと言う。しかし問題は、癒せなかったことよりも、そのような状況の中で彼らは議論に熱中していたと言う点にある。病の息子を持つ父親とその息子に寄り添い、共にあるという視点が欠けていたように思われる。

ところで、「癒」と言う漢字は「病を愉しむ」という形で成り立っていると見ることが出来る。(漢字そのものの意味はそうではないが)  癒しとは…病気を抱えたままでもいきいきと生きていける…そう考えると、この箇所の父親の叫び「信じます。不信仰な私をお助けください。」とも重なりあってくる。

イエス様は不信仰のままで、弱さを持ったままでも受け入れ、認めてくださる。ゆえに教会は自分の弱さや欠けをさらけ出しても受け止めあえる。そしてそこはイエス様の語られた神の国となる。