メッセージ   2012年 4月 1日
 「通りかかりの出会い」  (マルコの福音書15章21節)

 十字架刑では囚人が自らの十字架をかついで刑場へと向かう。さらし者とするためにも敢えて遠い道のりを歩かされる。心身ともに極限状態であったイエス様はもはや十字架の木を担うことができなかった。そこで…たまたまエルサレムへ、おそらく過越しの祭りのために北アフリカからやってきていたクレネ人シモンが代わりに十字架をかつがされることになった。シモンにしてみればとんだ災難である。惨めさを打ち消すべく「俺は無関係だ!」と叫びながら歩いたことだろう。しかし…実は身代わりはイエス様の方であった。本来、あの十字架を担がなければならなかったのは私たち一人ひとりだったはずである。

ところでマルコの福音書はローマ教会に宛てて書かれたものだといわれる。「アレキサンデルとルポスの父」とわざわざ記してあるところを見ると、読者にはそれが誰だかわかったのであろう。実際、パウロがローマ教会へ宛てた手紙には「主にあって選ばれた人ルポス」「彼と私の母によろしく」(16:13)と言う表現が見られることからも、同一人物ではないかと考えられる。また、「ニゲルと呼ばれるシメオン」がアンテオケ教会にいたことも記されている(使徒13:1)。ニゲル=黒人からも、これまた同一人物という説がある。

通りかかっただけで運悪く十字架を担がされることになったシモン…しかしこのことがきっかけとなって後に彼はキリスト者となり、異邦人伝道の拠点となるアンテオケ教会の中心人物となった。さらにその信仰は妻や子どもにも及んだ。福音書に記されている、刑場(ゴルゴタの丘)への道のりで主イエスが語ったことばは、共にその道を歩んだシモンが伝えた…想像の域を出ないが十分に考えられる話である。小さな出会いを通して福音が広がることを祈りつつ、今週も歩みたい