メッセージ   2012年 3月25日
「神のわざが現れるため」  (ヨハネの福音書9章1〜7節)

生まれつきの盲人を前に弟子たちは「誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」とイエス様に尋ねた。今日でも、このような考え方は残っており、そこにつけ入ろうとする怪しげな宗教もなくならない。

人は理解し難い苦しみや悲しみに遭遇すると、なぜこんなことが…よりによって私の身になぜ…と理由や意味を問いかける。仮に原因を特定できたとしても、その人の置かれている状況を改善したり寄り添ったりすることにはならない。弟子たちの論議はまさにそれであった。
  

ところがイエス様はこの問いに対して、神のわざという視点をもって向き合われた。そしてこの盲人の目は主イエスによって開かれ、このことを巡っての論議が聖書2ページにわたって記されている。まさに神のわざが現われたのであるが…。

神のわざとは言え、そのために人が長きにわたって苦悩を背負わされてもなお愛の神なのだろうか。また、この盲人は目が開かれたが、あくまでも限られた奇跡である。

ここのイエス様の言葉は「神のみわざが彼の上に現われるために、私たちは私を遣わされた方のわざを、昼の間にしなければならない。」と読むことが出来る。状態の説明ではなく、状態を変えようとされた、また奇跡の事情を語られたのであって、見えないことが奇跡のために備えられたわけではない…と。いずれにせよ、目が開かれた=神のわざが現われた…と安易に終われる話ではない。