メッセージ   2012年 3月4日
「人の歩みを確かなものとされる主」(箴言16章1〜9節)

 私たちは人生を振り返っては後悔したり懐かしんだりする。また先を考えてはあれこれ悩んだり願いを持ったりする。しかし結局は神様の計画だけがなるとこの聖書は語っている。

過去を振り返ったとき、それが罪であるとはっきりしていれば、その間違いは悔い改めなければならない。しかし、聖書を見るとわかるように、神様は人の失敗や罪をさえ用いて働かれる方である。言い換えるなら人の失敗を乗り越えて、神様は計画を進められる。私たちは罪を悔い改め、反省したり検証したりすることは大切だが、くよくよしたり引きずったりする必要はない。

とすれば、先々の計画を立てる際に、あるいは選択を迫られたときにあまり迷う必要はないとも言える。どの道を進んでも、たとえ失敗したとしても、神様が働いて最善の道としてくださるのだから、結果を神様に委ねて進めばよいことになる。とは言え、私たちは自分なりにこういう結果を期待したいというイメージを持っている。そこから解放される必要がある。たとえ自分の願いがかなわなくても、神様が与えてくださる喜びがある…私たちは体験的にそのことを知っている。大切なのは神様が与えてくださる幸いを見出す目を養っておく、それを受け取るチャンネルを持っておくということ…すなわち、聖書の言葉に養われ、讃美と祈りを大切にするということである。


それにしても私たちは神様の思いと自分の思いの間を行ったりきたりする。委ねきれない自分がいる。「正しすぎてはならない」(伝道者の書7:16)とあるが、自分の判断や知恵に自信がある…そこまでは言えなくても、こうなれば幸せだという自分の思いから離れられない。この言葉は、そんな自分の感覚に振り回されず、謙虚になることへのすすめである。「ゆだねよ」(16:3)とは「転がしてしまえ」という意味だと言う。「えいやっ!」と神様にお任せできると良い。