メッセージ   2012年 2月12日
「本質を見る」   (ヨハネの福音書5章1〜18節)

 

べテスダとは憐れみの家、恵みの家という意味である。主イエスは38年もの間、病に伏せっていた人に「あなたは病気を癒してもらおうという意志を持っていますか」と問いかけた。絶望と無気力の中にいたと思われる人の眠っている思いを引き出すかのような関わりと言える。しかし彼はそのことに直接答えることなく、池に自分を運んでくれる人がいないと訴える。

彼は池の水が動いたときに、誰よりも先に自分を池の中へ運んでくれる人が現われるのを待っていた。自力ですばやく動くことが出来なかったからである。しかし、そんな彼に向かって主イエスは「起きて、床を取り上げて歩きなさい」とおっしゃった。そして彼は癒されたのである。大切なのは池に入ることではなくて癒されること、自分の意志で生きることだった。いつの間にか彼の生きる姿勢は本質からずれてしまっていたと言える。

ところでこれは安息日の出来事であった。ユダヤ教の決まりによれば、安息日に人を乗せた床を運ぶことは赦されたが床だけを運ぶことは赦されなかった。ゆえにイエス様の癒しの業に多くのユダヤ人が怒った。安息日の本質を見失った感情である。そのことに対して、大切なのは安息日を無難に過ごすことではなく、神様に喜ばれるあり方を探し求めることであるとイエス様は示された。

私たちも、目先のことに気を奪われ、あるいは置かれている状況に打ちのめされ、見失ってしまっていることはないだろうか。信仰のあり方、人との関わり方、家族との関係…大切なのは私たちを造り、愛し、生かし、助け導いてくださっている神様…そこに立ち帰ることである。そしてそこが私(たち)にとってのベテスダとなる。