メッセージ   2012年 1月15日
「迷子になった?イエス様」ルカの福音書2章41〜52節

 主イエスが12歳のとき、過越しの祭に参加するためにエルサレムへ両親と共に出かけたときの出来事である。

 帰る道中、息子がいないことに気づいたマリヤとヨセフは探し回り、結局エルサレムまで戻って、神殿で律法の専門家たちと議論をしていたところを見つけた。勝手なことをしていなくなっていた息子をマリヤは叱るのだが、主イエスは父の家にいることを当然のことだと答える。迷子のイエスを捜す両親…不思議な光景である。人生の現実においては私たちが迷子であり、イエス様が私たちを捜しておられる。神様がおられないように見えて、実はイエス様は共にいてくださるのであり、いなくなっているのは私たちの方なのに…。

 この場面でイエス様の「父の家にいる」と訳された言葉のうち、「家」はもともとなかった表現である。父の仕事に取り掛かる…そんな意味にも訳すことができる。過越しの祭り…人の罪をあがなうために動物が犠牲として捧げられる大きな祭りである。イエス様は、人々の罪の身代わりとして十字架にかかられる…その道を歩むことを意識していたかどうかは別としても、過越しの祭が行なわれている神殿にとどまり、父の仕事に取り掛かる…そう理解するなら、実に象徴的な出来事だと言える。

 迷子になった私たちが帰るべきところ…それはイエス様の十字架である。具体的には主日の聖餐式だとも言える。私たちがここに帰ってくることを、イエス様は待っておられる。