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旧暦の六月十日・十一日は『灯籠(燈籠)祭り』と呼ばれ、祭りの起源については地車同様確かな記録がありませんが、中家がゆかりの深かった後白川上皇の霊を大森神社に招き慰霊の行事に御輿(みこし)を担いだのが遠因とされています。
灯籠祭りの語源ですが大森神社の夏の祭礼の出し物が灯籠であったためこう呼ばれたといわれています。
(夏祭りは御輿が中心で壇尻(地車)は、後について行く、従的役割であったといわれています)
最初は中家が選んだ五十四名家の人達が、交替で担ぎ紺屋山から湊(泉佐野市湊)を経て泉佐野の浜へ渡御されたとの記録もありますが、長い年月のうちには五十四名家に盛衰があり、この制度も崩れ、各字が年番制で担ぐようになったといわれています。
しかし、御輿は順番を無視して絶えず奪い合いが演じられ、明治末期に至っては、遂に阻止に入った警官と衝突し、負傷者も出たので協議の結果御輿を担ぐことが禁止となり、御輿庫へ納められてまま今日に至ってます。
御輿が取りやめになってからは、それに変わるものとして各字ごとに灯籠が担ぎだされるようになり、祭礼日も新暦の七月十一日・十二日に行われることになりました。
灯籠を担ぎ出す準備は、各地区が、たいてい祭礼日の二〜三日前頃から行い、その段取りは、まず、すべての指揮や世話を司る勧進元を選ぶことからはじめられました。
勧進元の主な役目は、燈篭を担ぐについての必要な経費や諸材料などの寄付を集めることでありました。そのため各地区では信頼のある人や有力者が選ばれました。
また、勧進元は万一にも寄付以外にも不測の入費が生じた場合、補充の責を負ったものです。
村人たちにとって、灯籠祭りは唯一の楽しみであったので、勧進元の指示による寄付集めと同時に、本番の灯籠整備に勇んでとりかかります。一年の汚れを洗い流し、補修個所があれば地元の大工に修理を依頼したりし清掃なった灯籠を、丸太棒を組み合わせ、縄でしっかり密着して作った台棒の中央に固定させ、次に、灯籠の各枠に和紙を貼りそして、正面に貼った和紙に、大森神社、また、後ろの枠の和紙には御神燈と墨あと鮮やかに大書し、赤インク・青インクで霧を吹きつけ化粧をほどこし、台棒には縦に四本、それに横に、二本または四本の丸太棒を渡して組み合わせしっかりとしばりつけてくみ上げられました。
しかし、この灯籠を担ぐ若衆がしばしば問題を起こし、灯籠をあてては喧嘩をしたため一九五〇年(昭和二十五年)ごろに担ぎ出しが中止されました。
近年各地区子供たちの楽しい夏祭として、昭和六十年の夏祭から復活され子供灯籠が担ぎだされました。
古老たちによって伝承される灯籠担ぎ歌は次のとおりです。
「米はなーえ、熊取よヨイヨイ、日根野は小豆、大木・土丸ソラエー桃所よワーヨイヨイヨイヤーナ、ワーレワイツサノエー、ガツサイロジヤ、ガツサイロジヤ」