木器KOZUKI

木器というところ…

豊かな自然と文化に囲まれて

木器(こうづき)
兵庫県三田市の東北に位置する高平谷
三田市内で発掘された縄文遺跡の多くはここ高平であり、古くから人の居住地であった。
地名の語源は、諸説あるが、木地師(木工職人)が木の器を作っていたことにちなむものとみられている。慶長10年(1605)の摂津国絵図(慶長国絵図)には「コツキ村」とある。
秋祭りの様子
毎年、木器天満神社で10月の体育の日の前日に秋祭りがあります。
5段布団太鼓で1日かけて木器を練り歩き、神社で神事が執り行われます。
 
「ヨーイーセー!」
羽束山(はつかさん)
その姿の優美さで
三田市を代表する山の一つである。
平安時代から貴族たちの歌枕だった

 
秋はつる はつかの山の
  さびしきに
   有明の月を 誰とみるらん

         新古今集 大江道彦

その昔、羽束山は、かかる月とあわせて、観る名所だったらしい。
羽束川(はつかがわ)
高平を北から南に流れる清流である。
千刈水源となり神戸市民の水がめになっている。
天然記念物
オオサンショウウオが生息する豊かな自然に恵まれている。
興福寺(こうふくじ)

境内にある観音堂には…

兄源頼朝から追われる身となった源義経(牛若丸)が源平合戦の時に、勇将那須与一に観音像と縁起書を預けて行った。与一は、文治3年(1187年)に興福寺に観音像を預け、秘仏とされている。

天保年間には…

1830年から1843年は、不作の年が多く、農民や町民は、生活に苦しんだ。大塩平八郎が、貧民救済を掲げて反乱を起こした。
遅れること5ヶ月、大阪府豊能郡能勢の地で大塩残党の旗を掲げた農民一揆があった。首謀者とされる山田大助は幕府に追われ、興福寺に逃げ込んだが、奉行所から追われ、自害した。
    小説 山田大助 天保能勢騒動
 著者 土岐稔
¥1000+税

カバー表は私の趣味作品古布絵
 興福寺の観音様
源平合戦…

それは、源氏と平氏の戦いでいくつかの話になっています。

源義経(牛若丸)は、兄頼朝の命令を受け平氏を打ち滅ぼそうと京都から出陣した。
観音さまは、空法太子が彫った観音菩薩像で奈良の寺にまつられ、お坊さんのはからいで
義経に贈られました。

義経は、観音様にこの戦いに勝てます様にと祈り、丹波のみちへと急ぎました。
観音さまの祈りが届いたのか連勝し、その時の武将の中に、信頼のおける家来
那須与一がいました。

戦いに敗れた平氏の軍勢は軍船に乗り、沖へと進みこれを追って、義経は屋島(四国)へ
渡りました。
海と陸で両軍がにらみあい、何もしない日が続き、そんな時、平氏の船から
扇を竹竿のさきにくくり近づき、乗っていた女官が扇を指さしし、この扇を落としてごらんと
言っているようです。これをうけて、討てなければ、源氏の名おれです。
弓の名手は…
与一にできないか…与一は迷いましたが、やってみましょうと馬に乗り、扇の的に向けて
矢を放った。
”お見事”扇にあたり、ひらひらと海へ落ちました。

壇の浦で決着がつき、源氏の勝利となりました。
その後、義経は有名になり、兄頼朝に追われる身となり、数人の家来をつれ、山伏姿の義経は、
観音さまを与一に授け、東北地方へ落ちのびました。

与一は、戦いの手柄として幕府から荘園をもらい、観音さまを大事に持って平氏追討の時に
通った道をたどることにしました。
丹波口→能勢→多田→川西→三田 大阪峠を越え、木器の興福寺に入った与一は、観音さまを
預けることにしました。
観音さまがどんなにありがたいものかと分かってもらえるだろうと与一は安心して、丹波の国へ
向かいました。

寺や村の人達は、本堂のわきに立派な観音堂を建て、おまつりし、子孫が絶えることなく代々続いて
運も開けますようにと祈願しました。

ありがたい観音さまというので、いつの頃からか扉に鍵がかけられ、50年に1回開扉するとりきめが
できました。

その後、与一の子孫にあたる人が、鎌倉から来られて、木器に住み郷士となりました。
つい最近、本堂や庫裡は類焼しましたが、観音堂は、無事でした。ご開帳(鍵が開けられる)時には、観音さまに会いたいものです。

…三田の民話より…


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