淀城レポート
落城日 2003年5月3日(土)
落城者 ばんちゃん 以上1名
 井根町ツーリングの集合時間まで時間があったので
自宅から10分ぐらいの所にある淀城跡によってみる。
京阪淀駅横で、京都競馬場がすぐ側にあり、その日は
競馬の開催があることから周辺の道路は馬を運ぶ
馬運車で混み合っていました。
城跡は公園と神社になっており物静かな様子でした。
一人で落城はさみしいな〜。
【淀城の歴史】
 
 
淀の方ゆかりの淀城は現在の淀城ではなく、この納所にあった。天正十七年(1589)、秀吉は自ら縄張りして
淀城を普請した。ここに淀の方が入城し、そこで秀吉の子・鶴丸を産んだ。しかし、文禄三年(1594)、早くも取り
崩されて廃城となった。現在、あとを偲ぶものは何もない。
 淀城跡は京阪淀駅に隣接している。元和五年(1619)の伏見城の廃城に伴い、徳川幕府は、桂川・宇治川・
木津川の三川が合流するこの水陸の要衝に、新しい城を元和九年(1623)に着工、寛永二年(1635)に竣工させた。
その翌年、三代将軍・家光が上洛した。同時期に上洛し、二条城に入っていた父秀忠に挨拶した後、淀城を在京中の居所とした。
享保八年(1723)五月、春日局の孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から移り、明治維新までの百数十年間、
この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。

 春日局(1579〜1643)は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘であった。光秀の軍は山崎合戦で敗れ、
兄は戦死、父は捕えられて磔刑に処せられた。土佐の長宗我部元親にかくまわれ、十三歳のとき京
に出て公家の三条西家に奉公し、十七歳のとき稲葉正成の後妻となった。秀忠の長子竹千代(後の家光)
の乳母を求めているのを知って応じ、採用される。家光が将軍継嗣になるため尽力し、後に大奥を統率
して勢力を振るった。
この城は周囲に二重三重の濠を巡らし、
 淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると
の歌で名高い水車は直径八メートルもあり、城の西南と北の二ヵ所に取り付けられ、水郷らしい風情を
かもしていた。
淀城とその城下町の盛観は、延亨五年(1748)五月に来着した朝鮮通信使の様相を写した朝鮮聘礼使淀城
来着図に詳しく画かれている。朝鮮国からの善隣友好の使節団・通信使は、江戸時代の慶長十三年(1607)
から文化八年(1811)の間に、十二回来日した。淀川を上る美しい船団の様子とともに、淀川べりの街道を
樂曲を奏でながら進んだ彼らの姿は、さまざまな文化的な影響を残した。琉球国からの使節もまたやってきた。
徳川幕府の淀城の役割は、国使を都に迎え入れるための西の玄関口でもあった。木津川を渡った男山の麓
にある遊里・橋本も、この流域の華やかさに色を添えた。

幕末には、薩長土肥の四藩や京都の朝廷の動きに対応して、幕府軍が京都や大阪に駐留した。
また、攘夷・開国に揺れる中を、朝廷との折衝のためや幕府軍の陣頭指揮のために、将軍自らが大阪城に入った。
このため御用の船の往来も特に盛んになり、道としての淀川は俄然活気を帯びた。
三十石船は、京都の伏見と、大阪の八軒家間の定期乗合船である。これに「飯くらわんか、酒くらわんか」などと
叫びながら近付き、乗客や船頭に魚、餅、果物といった食物や酒を売っていた船を、俗に「くらわんか船」と呼ぶ。
大阪夏・冬の陣に功のあった摂州柱本の船に、家康が食物売りの独占権を与えたことが起源とされる。
明治初年には、外輪型蒸気船が登場し貨客輸送に活躍したが、その後の鉄道開通によって打撃を受け、
淀川の河川交通は衰退の一途をたどっていく。

名神高速道路の開通によって、京都・大阪間を旅する人は、淀川の流れを殆ど見ることなく通過して行く。
こうして、淀川流域に対する一般の関心は、次第に薄れている。