竹田城レポート
落城日 2005年5月3日(火)
落城者 かずひろ とよまる みのっち にしわき まりぶ〜 ムロちゃん がすくん 以上7名
2005年GWツーリングということで、出石そばツーリングを開催
した時に立ち寄った城跡。
本来であれば軽快なワィンディングを楽しんだ後に城の城壁を見て
楽しみたいところではありますが、道路が工事中で、したのバス停
からの写真です。
城壁が残されており、恐らく城跡として何らしかの跡が残っている
はずですが、望遠レンズで撮った写真でご勘弁。【竹田城の歴史】
城は築城後、山名の家臣太田垣光景が初代城主となったと伝えられ以降太田垣氏は7代にわたりこれを守り継いだ。
応仁の乱では2代城主景近が京都へ出陣した際、夜久野へ来襲した細川軍を景近の二男宗近が撃ち破ったという。
永禄12年(1569)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城を攻略した。天正5年(1577)再び秀吉軍の攻撃をうけ竹田城は
ついに落城した。このあと秀吉は弟小一郎を城代として城内の整備を命じている。同8年(1580)桑山重晴が城主となり、
13年には四国征伐等の役等に出役したほか、文化人としても儒学者藤原との親交も厚く、領民には産業を奨めて深く敬慕された。
関ヶ原の役には西軍に属した。関ヶ原敗北後、徳川方として鳥取城を攻め、戦功をあげたにもかかわらず、
城下に火を放ったことで徳川家康の忌避にふれ、鳥取真教寺において自刃し果てた。享年39歳、慶長5年10月28日にことである。