高取城レポート
落城日 2002年1月19日(土)
落城者 かずひろ
 新しい年が来て、2002年もやっぱり『OIT落城』は続きます。
最近落城POINTが右肩上がりにならず、平行線を辿っているの
で、奈良支部長自ら落城して来ました。
 場所は、奈良県高市郡高取町にありご近所には【壷坂寺】と
【五百羅漢】があります。
 城に向かうにはひたすら山道を上がり、途中で下馬してトコト
コというかはぁはぁ言いながら山を登る事10分位で着きます。


  
       【本丸からの眺め!!絶景ですよ♪】
   
【高取城の歴史】
大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、高取山の頂にカキ上ゲ城と呼ばれる中世の山城・高取城を
築いたのが南北朝時代。
そして本多氏が城主となった桃山時代、高取城は見事な石塁や天守閣を持つ白く輝く城郭に改築されました。
それ以降、芙蓉の花にたとえられる美しい姿で、里人を見守り続けました。

標高五八三・九メートルの高取山頂に、いまも栄華の様子をとどめる高取城跡。
それはまるで人の世の流れの中にひっそりと残された、歴史の忘れ物のようです。

【かきあげ城】
高取城は、今を溯ること約670年前、中世南北朝時代、大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、標高583mの
高取山の頂に砦のような城を築いたのがその始めと言われている。山頂を引きならして曲輪(くるわ:城・砦など、
一定の区域の周囲に築いた土や石のかこい《広辞苑》)をつくる。尾根筋に沿って幾段もの曲輪が連なり、要所
要所に掘割がつくられ、守りとなっている。恒久的な軍事施設はなく、立派な櫓・天守もない、自然の地形に多少の
工作を加え敵を防ぐ形態の城を掻揚げ城(かきあげじろ)と呼ぶ。吉野方面との連携をはかることが当時の使命であり、
非常の場合、軍事権をもつ惣領が一族・郎党を引き具し、ここにたてこもるのである。

【芙蓉城】  
1585年(天正13年)大和国郡山城主 豊臣秀長の重臣 本多太郎佐衛門(1万5千石余)が高取城主となり、
天守閣・石塁など本格的な築城が進められた。これは郡山城を本城とし、高取城を詰城、即ち控えの城として計画されて
いたもので、最後の一戦を決すべき拠点として重視されていたのである。1640年(寛永17年)幕府大番頭 植村家政が
高取藩主となり、以後14代228年、植村家が藩主となる。時代が進み、世が泰平になるにつれて山上の生活が不便となり、
城下町に下屋敷、即ち藩主の居住並びに政庁がつくられ、家臣も下に屋敷をたまわり下りてくるようになった。下屋敷は、
はじめ宗泉寺の位置にあったとも言われ、後に下子島村のうち、土佐町に近い場所に移された。天正期以後の整備・拡張
により高取城は「芙蓉城(ふようじょう)」とも言われ、『巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城』と歌われた。

【廃城】
明治維新の後、明治政府は各地にある城郭のうち、58城を残し、144城の廃毀を決めた。大和の国の郡山、高取の2城も
廃毀となった。高取城は、明治6年入札により、詳細は残っていないので不明であるが、城郭の大部分が寺院などに売却
されたと思われる。ただ人里離れた山頂であるため、その綱張りにおいては完全に近く遺構をとどめており、昭和28年に国
の史跡に指定されている。