【勝龍寺城の歴史】
小畑川と犬川に挟まれた段丘上に立地する勝龍寺城跡は、近年の発掘調査を経て、現在、本丸跡と沼田丸跡が復元されて
勝竜寺城公園として整備されています。
本丸の周囲には、鉢巻石垣と堀、そして板塀と隅櫓、南側の正面には堀を跨ぐ大手橋と高麗門まで建てられている。
城門を潜ると、一見櫓風の管理棟があり、1階が事務室・休憩室に、2階は展示室になっています。
かつての構造は、方形の本丸を中心にその西側に沼田丸、沼田屋敷、北側に松井屋敷、米田屋敷、さらに北方に外郭と
神足屋敷が構えられていた。
近年の発掘調査でこうした構造の大半が石垣によって築かれていたことや、虎口部分が枡形虎口となっていたことが明らかに
なり、近江安土城に先行する織豊系城郭であることが判明した。
また、「殿主」の存在したことも記されており、天主に相当する高層建築も存在していたようである。
なお、北方の外郭跡にあたる神足公園には、竹林となってかろうじて土塁と空堀が残されています。
京都盆地南西部の要衝である勝龍寺城は、従来南北朝時代に北朝(足利尊氏)方の前線基地として、細川頼春によって築かれた
といわれてきたが、歴史的根拠はない。
“応仁・文明の乱”(1467〜)では、西軍の拠点として畠山義就が修築している。
織田信長によって足利義昭の入京(永禄11・1568)が果たされると、勝龍寺城は旧城主の流れを汲む細川藤孝に与えられ、
1571(元亀2)年、藤孝は反織田勢力による山城侵攻に備えて城を改修した。
藤孝は、その後丹後宮津城に移り、勝龍寺城には守将を置いた。
1582(天正10)年の“山崎の合戦”では、明智光秀は勝龍寺城を前線拠点とし、山崎での敗北後、一旦勝龍寺城に退却し、
近江坂本城(滋賀県大津市)めざして脱出するが、途中の京・小栗巣で自害して果てる。
勝龍寺城は秀吉の大軍に攻められ落城し、その後、廃城となった。 |