園部城レポート
落城日 2003年5月3日(土)
落城者 かずひろ 以上1名
 2003年度GWツーリングのしめくくりとしてかずひろが1人
寂しく落城した城がこれです。
今回は完全に夜で、時間もかなり遅かったです。
しかしわき道に入ったとたん目に飛び込んできたのが写真の
城で立派やなぁ〜と思って近づくと・・・・
なんと下はガラス張りで何やら地下にはプールが存在するとか
しないとか。
今は国際交流会館として姿を変えているようです。

 しかし、横に園部高校たるものがあり、校門が現存二層櫓門
という洒落たことをしており、それはバイクに跨ったまましっかり
と見てきました!

 歴史の授業でここの高校生達はしっかり歴史の勉強が出来て
羨ましいなぁ〜と思う今日この頃です。

 おいらも大学に行って、考古学を学びたいっす(≧∀≦)ノ
【園部城の歴史】

城は本格的な城郭ではなく、屋敷城形式の居館であるが、今も白堊まばゆいばかりの二十隅櫓、楼門、銃眼
をあけた塀、番所が残り、かっての面影を偲ぶに十分である。
 「園部」の名は、和銅年間の昔、食料の生産をしていた「部」があったことからついたといわれています。
 園部の地に初めて城が置かれたのはいつ頃であったかは不詳ですが、室町中期、矢上城にあって丹波一円
に威を張っていた波多野氏が、園部盆地の押えとして築いたものという。 そしてその城将には園部七頭家の
一人、荒木山城守氏綱が任に当たった。その頃の園部城は、JR園部駅と城址の中間に大きく横たわる天神山
の山頂付近にあったと思われ、海抜236mに及ぶ典型的な山城であったようだ。
 戦国時代の天正6年(1578)織田信長の丹波征伐の命を受けた明智光秀は、矢上城波多野兄弟を攻略する
途中、この園部城は攻め落とされた。
 元和5年(1619)但馬出石城主小出伊勢守吉親が当地方二万九千七百石で入封すると、麦畑になっていた
城址に築城の工を起こす。工事は二ヵ年を費やし、元和7年11月に完成を見るに至った。
吉親は園部川の流れを北に大きく迂回させ、城下町を経営し、この流れを城の北方の「捨て堀」にした。
城の形態は方形に主居館の置かれる本丸に相当する部分を置き、その周囲に家老屋敷、役所、馬屋、侍屋敷
などを置き、主居館の西端に位置する背後の古向山を「詰の城」として、一朝時あった折の篭城戦に備え、
小向三層櫓といって、天守閣に相当する櫓をあげた。
大手は北方に釘貫門、大手門と二重構であけ、丹後路の押えとなし、搦め手は南方の南門に相当した。
堀は総て水堀を使用し、本丸は西、南面をカギの手に廻り、南はさらに細長い南蓮池(現、テニスコート)を配し、
外堀は侍屋敷はもとより、小出山を囲み延々2kmに及んだ。
 主居館の部分は方形に地取りをした屋敷城の典型で、櫓は乾櫓、巣鴨櫓、太鼓櫓、巽櫓(現存)の四基をあげ、
表・裏鬼門の東北・南西には櫓はなかった。門は東方に御城門(現存)、南に不浄門、さらに西門があけられてた。
御殿は小藩ながら、大きく立派なもので、御城門を入るとすぐに車寄、さらに大広間、小書院、奥院と続き、ほかに
台所、金庫など九棟が連なっていた。
 吉親入封以降、小出氏は移封もなく、外様大名としては珍しく幕閣につらなることもあったが、幕末には、藩論を
勤皇に統一して、京都御所警備にもついた。
戊辰戦争のさなか、最後の園部藩主(第十代)小出英尚は明治新政府から園部陣屋をより堅固な園部城として整備
する許可を受け、慶応4年(1868)一月から明治2年(1869)八月にかけて櫓門・巽櫓の他小麦山山頂に三層の櫓など
を築きました。いざという場合、すみやかに天皇を園部にお迎えする用意であったという。
 しかし、新たな時代の潮流の中、園部城は明治5年(1872)そのほとんどが取り壊され、今は残った巽櫓や城門、番所
の遺構が往時を偲ばせます。