篠山城レポート
落城日 2006年10月8日(日)
落城者 かずひろ 以上1名
最近ツーリング中に“落城”の言葉を発するとメンバーうけ
が良くない。悩みの種の一つである。
ここはリーダーなんやし主導権を一切合切握ってみて
『うおりゃー今日は落城三昧じゃー』と信長よろしくの声で
落城宣言しても良いのだが、今後の事も考え、丹波篠山へ
AM8:00に到着するようにAM6:00に家を出た小心者のリーダー
である。しかも寂しく一人で落城っす。
ここの見所は大書院という『S○ARPのワープロ名ではない』
篠山城大書院は二の丸跡に所在した城主居館の中で、
とくに歴代藩主による公式行事に使用された場所で、正規の
書院造の建物となってた。
この建物は慶長14年(1609)の徳川幕府の天下普請による
篠山城築城時に、京都二条城の御殿を参考にして建てられた
と伝えられ、大きさは東西28メートル、南北26メートルの篠山
城最大の規模となっていた。内部には上段の間、孔雀の間など
の多くの部屋があり、障壁画で飾られていたと考えられる。
廃城後もこれだけが残されたが、昭和19年の失火により失われた。
その後、焼失から56年たった平成12年3月大書院の威容が大書院
跡地に蘇った。【篠山城の歴史】
篠山城は、慶長14年(1609)に、天下を磐石なものにしようとする徳川家康が、豊臣方の拠点である
大坂城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために、山陰道の要衝であった
この地に築いた城です。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、
山陰道、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15カ国20大名が動員されました。
城は、当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いています。工事は、開始から1年に満たない
短期間でほぼ出来上がるという突貫工事で進められました。笹山は全体が岩盤で出来ていたため、
難工事の中での完成でした。
篠山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎が行ったものです。堀を二重に廻し、外堀の三方
に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっています。天守閣は、城の完成を急いだことと
実戦向きの城としたため築かれませんでしたが、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられました。
大坂夏の陣を経て江戸幕府が安定すると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられます。
江戸時代を通して、幕府の信頼厚い譜代大名の4家が、藩主として次々と移ってきています。