【音羽城の歴史】
日野城が出来るまではここが蒲生氏の居城であった。
戦略的な観点からは、さほど要衝ではない。しかし、三方を山で囲まれた地形故に、佐々木六角氏が緊急
時の隠れ城郭として度々使っていた。
以下、現地説明文より、
(中世の日野地方の領主蒲生貞秀によって応仁乱大乱期に築城された要塞堅固な典型的山岳山城である。
背後に宝殿ケ岳を控え、前面に急峻な崖地と日野川を配したこの城では、明応5年(1496)と文亀3年(1503)
の激しい合戦が2度起こり、いずれの城兵の蒲生氏が勝つが、大永2年(1522)に起こった蒲生氏同族間の
合戦で音羽城は落城し50数年の運命と共に城は廃城となった)
文亀3年(1503)10月、伊庭出羽守貞隆が守護佐々木六角高頼に背いたので、高頼は兵を出して伊庭氏を
討ったが、却って敗れ、高頼は音羽城に逃れた。
伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野城を築き、ここ居城とし、音羽城を属城とした。
貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。その子秀紀はまだ幼かったために秀行の
弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。
貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城
を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。この時に音羽城は破却され、
秀紀は鎌掛城を高郷は中野城を居城とした。
秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。この後、高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継いだ。 |