大阪城レポート
落城日 2001年2月18日(日)
落城者 かずひろ けんちゃん がつっぺ 以上3名
  実はこの日の前日に、かずひろが一人で京都市
 内にある二条城を落城しに行ったのだが、あまりの
 天気の良さに遠回りをして、嵐山方面→金閣寺前
 →龍安寺→二条城ってな感じで流したものやから
 時間が4時を回ってしまった・・・。いわゆるお城だ
 けに門前払いをくらってしまった。
  そこでこの日は大阪城を落城しに行こうというわ
 けだが、痛恨のここでも門前払い。けんちゃんは
 「天守閣に登ってないから落城してないやんっ!」
 と言ったが、まだまだ日本全国に落城しなくてはな
 らないお城がてんこ盛りなわけでそれを知ってい
 る僕は 「も〜ええやん。行った行った・・・落城落城」
 と半ばなげやり。
  でもこの日、門前払いを食らったのは撮影している
 時に話掛けて 来たあの夫婦のせいだと僕は思う。

 だって 遠目で見たら
まだズンズン人が大阪
城に入って行ってたもん
【大阪城の歴史】
 大阪城といえば『豊臣秀吉』そうっ太閤さんというイメージがありますが、実は歴史があるお城だというのが分かりました。
そのルーツについて以下から紹介して行きます。

【昭和から平成にかけて】
 まず、大阪城が現在の形になったのが昭和6年(1931)11月7日。歴史上3代目の大阪城天守閣が竣工した。この3代目
がミソで、大阪城は三回も建て直しがされているのだ。現在は鉄筋コンクリートで出来ていて、平成7年から9年(1995〜1997)
にかけて大規模な改修工事が再び行われた。
これは21世紀に残したいという大阪市民の強い意志だと僕は思います。車椅子に乗ったままでも天守閣内に入れるよう
身障者用エレベーターが小天守台西横に新設され、更に耐震性に優れた素材を用いて強化されています。
 近代の大阪城がどのようにして今の形になったかはお分かりになったと思いますが、さてその前の初代・二代目大阪城は
どうだったでしょうか?もともと秀吉の築いた大坂城(阪が坂に変わりました)は旧城の上に建築されたとしています。さてでは
一体大坂城の前には誰が天守だったのか?

【石山本願寺】
 明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、これが石山本願寺の起源となった。
この石山本願寺は、堀・塀・土塁などをもうけて武装を固め、戦国武将細川晴元らの攻撃に備えたため、次第に難攻不落の
城砦として強化された。織田信長の天下統一の野望に最も頑強に抵抗したのは一向宗(浄土真宗)本願寺派の門徒集団で
あり、その総本山が法主顕如を推戴する石山本願寺であった。
 元亀元年(1570)から11年に及ぶ長い戦争の結果、天正8年(1580)信長は顕如を本願寺から退去させることに成功した。
『信長記』には、「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」に始まる有名な一節があり、大坂の優れた地勢について詳しく述
べられている。信長は本能寺の変に倒れたが、この地に築城を期していたことは想像に難くない。


【豊臣秀吉時代〜大坂冬の陣】
 天正11年(1583)、秀吉は石山本願寺跡に大坂城の普請(築城工事)を開始した。一般には日本のお城のシンボルは天守閣
ですが、空にそびえる大天守が初めて作られたのは織田信長の安土城です。信長の後継者を自認する秀吉は、安土城をモデル
としながらも、すべての面でそれを凌駕することをめざした。

 秀吉の死からわずか2年後の慶長5年(1600)、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した。慶長8年、家康は江戸に幕府を開き
政権を掌握したが、豊臣家は徳川幕府成立後も天下掌握の夢を捨てられず徳川家との間に緊張関係を持続させていた。
こうした状勢のなかで、京都東山に豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘(釣鐘の銘文)に家康がなんくせを付けたことを
きっかけに、慶長19年(1614年)大坂冬の陣が開戦された。 約10万の豊臣方は軍勢の大半が浪人衆の寄せ集めで統制力
に欠けていたにもかかわらずよく防ぎ、攻めたてる徳川方20万の大軍を惣構の中へは一兵も突入させなかった。
 秀吉が築き上げた天下の名城は、やはり難攻不落の堅城だったのである。 しかし、講和による終戦の結果、大坂城は講和
条件であった惣構・三の丸の破却に続いて強引に二の丸の堀まで埋め立てられ、本丸ばかりの裸城にされてしまった。

【大坂夏の陣】
 
大坂冬の陣講和によって城を裸城とされた大坂方は、埋められた堀の掘り起こし等の復旧工事を手がけた。これが再軍備
とみなされ、冬の陣からわずか5カ月余りで夏の陣開戦となった。 慶長20年(1615)の夏、河内方面、大和方面から攻め上っ
てくる徳川方15万5千余りの軍勢に対し、豊臣方は防御の薄くなった大坂城では籠城作戦がとれず、敵の大軍が一つに合流
する前に撃破することとした。5月6日早朝大阪方は河内方面に兵を進め、先制攻撃を仕掛けたが、結局は大坂城へ退却せ
ざるを得なかった。そして、その翌日、決戦の場となった大坂の町中を悲惨な混乱に巻き込みつつ、ついに大坂城は落城した
のである。さらに、翌8日、山里曲輪にひそんでいた豊臣秀頼・淀殿らも発見されて自刃、豊臣家も滅亡するに至った。


【江戸時代】
 大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城は、家康の孫である松平忠明に与えられた。忠明は、大坂の町の復興に努めたが、
この間、大坂城の本格的な再建はなかったと考えられる。 元和5年(1619)大坂は幕府直轄領となり、翌6年(1620)2代将
軍徳川秀忠により大坂城再築工事が起こされ、3期に渡る工事を経て3代将軍家光の時に完成した。

 
築城工事への参加を命ぜられた大名は、石高に応じて分担する石垣の長さを割り当てられた。各大名は組分けされて
連帯責任と個別責任を負い、決められた工事担当区域「丁場」ごとにできばえを競い合わざるを得なかった。
大坂城の石垣には、大名が自分の担当丁場を誇示するかのように家紋などの刻印が丁寧に彫り込まれている例が多く
見られる。
大坂城の石は、廃城となった伏見城をはじめ、加茂(京都府)や六甲(兵庫県)からも運ばれたが、特に瀬戸
内海の島々は良質の花崗岩の産地として、多くの石が切りだされ、海路、大坂まで運ばれた。これらの島にはせっかく切
出されたものの大坂まで運ばれずに残された石(「残念石」と呼ぶことがある)が見られるところもある。 これらの巨石は、
陸上では「修羅」と呼ばれた運搬具によって運ばれたと考えられる。小豆島小海海岸には現在「修羅」の巨石を引く道具と
大坂築城残石が実際に残っています。現在の大阪城の石垣は江戸時代に建てられた時の石垣で、秀吉時代の石垣は
城の地下7メートル部分で発見されたそうです。となるとレイアウトや各配置は秀吉時代と江戸時代・現在では全く異なる
事がわかります。

 14代将軍家茂が征長戦争の最中に大坂城中で病没、後を継いだ徳川慶喜は15代将軍として幕府崩壊までの1年余り
大坂城と二条城を舞台に、諸外国の代表との会見などに活躍した。しかし、慶応4年(=明治元年1868年)幕府軍が鳥羽
伏見の戦いに敗れると、慶喜は大坂城を脱出、江戸へ逃げ戻った。その混乱の中で本丸台所付近などから出火し、
近世城郭建築の精華であった城内の建造物はほとんど焼失してしまった。
こうして、再築以来約250年を経て、大坂城は再び落城の憂き目を見ることとなったのである。

 これは大阪城の歴史のほんの一部分にしか過ぎません。これだから歴史フェチはやめられませんね。皆さんも近くにお城が
あるならば、一度訪れて見て下さい。きっと今まで見えなかった物が見れると思います。