【長浜城の歴史】
織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、岐阜小谷城(おだにじょう)を攻めた時、
横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。
小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードはあまりにも有名です。
※余談ですが、PS2の鬼武者のお話も上記の内容が出てきます。
天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、
羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。
翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。
築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、
当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことが沢山あります。
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、
天正10年まで住んでいました。この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや
中国攻めへと出発していったのです。
天正10年(1582)信長亡きあとの清洲(きよす)会議で長浜城は柴田勝家(しばたかついえ)の甥の
勝豊(かつとよ)が城主となりました。しかし、はやくもその年の11月、秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り返し、
賤ヶ岳(しずがたけ)合戦の拠点としました。
その後長浜城は山内一豊(やまうちかずとよ)、内藤信成(ないとうのぶなり)、内藤信正(ないとうのぶまさ)を
城主に迎えました。豊臣氏が滅亡すると、長浜城は跡形もなく取り壊され、石垣など多くの材料が彦根城の
建設のために使われました。今見られる大通寺台所門・知善院表門・彦根城天秤櫓(てんびんやぐら)は
長浜城の遺構であると言われています。
現在の長浜城は、昭和58年に市民の熱意と寄付金などで建設され、内部を歴史博物館として開館しました。
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