水口岡山城レポート
落城日 2007年2月25日(日)
落城者 かずひろ うえっち ぜっど ばんちゃん 以上4名
 現在は遺構などは何一つ残ってないが、
中腹と山頂付近はちょっとした小公園となっている。
登山道を登って行くと「花の広場」なる物がある。
さらに登って行くと「憩いの広場」や「緑の広場」がある。
 山頂近くには「石垣見学コース」が設けられているが、
三代将軍徳川家光の命によって小堀遠州が水口城を
築いた際、岡山城の石垣をほとんど転用したので、今では
石垣らしいものの一部が見られるだけである。
 本丸跡には展望台が建ち、水口の町並みと甲賀の山々
が見渡せ、この地が交通の要衝であったことが実感できる。
【水口岡山城の歴史】
 水口は京都から伊勢に通じる要衝の地で、室町時代にはすでに宿場町が形成されていた。
天正13年(1585)天下を握った豊臣秀吉は水口の地を重視し、中村一氏に命じて大岡山の山頂に城を
築かせた。これが水口岡山城である。
 中村一氏の後、豊臣五奉行の増田長盛、ついで長束(なつか)正家が岡山城主となった。
 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦前夜、長束正家は上杉氏征伐に向かう徳川家康を招待して謀殺しようと
したが、甲賀者の密告で家康は本多忠勝軍を先頭にして、夜半に乗じて水口城下を通過して関宿に向かい、
難を免れたという。
なお、石田三成の家老・島左近が街道沿いの旅籠の二階に兵を潜ませ、家康を狙撃しようとしたという話
もある。
 長束正家は天下分け目の関ヶ原の合戦で西軍に属して敗れ、水口岡山城は完成からわずか15年で廃城
となった。
 徳川三代将軍家光が築かせた水口城に対して、岡山城は今では水口古城と呼ばれている。