【水口城の歴史】
水口城は水口の市街地の西部、旧東海道の南側に所在する小規模な平城で、石垣と水堀で囲まれた本丸と二の丸の2郭から
なっています。この城は寛永11年に行われた徳川3代将軍家光の上洛に際し、その宿館(将軍家専用の御殿)として小堀遠州ら
が作事奉行として築城した特殊な城郭で、本丸内部には京都二条城を小振りにした豪華な御殿が存在していました。
築城には3年の歳月とのべ10万人の大工が投入され、特に将軍の御座所になる御殿や二階建て望楼風の亭(ちん)は数寄を
凝らしましたが、将軍の帰途に1度だけ用いられただけで、その後は幕府の管理のもとに城番が置かれました。
【水口藩について】
50年後の天和2年、石見国吉永(現在の島根県大田市)から加藤明友が2万石で入り水口藩が成立。水口城はその後明治維新
までその居城となりました。藩主は3代目に鳥居氏が入りましたが、その後再び加藤氏に復し2万5千石で甲賀・蒲生・坂田郡の一
部を支配しました。水口藩は小藩でしたが、水口は宿場町であるとともに城下町の性格を備えることとなり、甲賀郡の郡都としての
基礎が固められました。初代藩主となった加藤明友は秀吉と家康に仕えた猛将加藤嘉明の孫で、水口城に入るとこの城を「碧水城
」と名付けました。その名は野洲川の伏流水が湧く堀が青く涸れることがないことにちなみます。
【水口城跡について】
水口城は明治維新後公売に付され、石垣や建物は一部をのぞいて撤去されました。しかし公立学校の運動場として利用されてき
たため本丸の遺構は残り、郷土のシンボルとして親しまれ、昭和47年には滋賀県の史跡に指定され、特に近年東側の通称出丸部
分が整備され、市民の憩いの場として、観光スポットとして注目されるようになりました。
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