【郡山城の歴史】
中世の郡山は南北朝動乱後、郡山を中心とした有力名主層=土豪層の連合体=郡山衆の一団があった。
もとは郡山八幡宮の氏人衆であったが、外部勢力から自己を守るため団結したものである。
その居館は郡山丘陵に、居館の集合体として雁陣の城を形成していた。
天正5年(1577)、筒井順慶が松永久秀を破って織田信長から大和一国を与えられると、同8年、国中の諸
城破却令により筒井城を廃して、ここに本格的な近世城郭を築いて居城とした。
翌12年、順慶が死ぬと豊臣秀吉は、天正13年(1585)順慶の養子定次を伊賀に移し、大和大納言と称さ
れた秀吉の異母弟が、紀伊・大和・和泉三ヶ国百万石の大名として入城した。
秀長は百万石にふさわしい城をめざして拡張改築を行ない、その際石垣の石が足りず、寺院の礎石、
五輪塔、石地蔵なども用いるほどであった。 天正19年1月、秀長没して子の秀保が後を継いだが、秀保は文禄4年(1595)十七歳で死去した。
その後、五奉行の一人益田長盛が文禄朝鮮の役の功により二十万石にて入城、総構えの構築に着手
した。これは城下町全体を囲む外堀工事であった。 長盛は関ヶ原の役に西軍に属し、領地没収後は、城代時代が続く。
元和元年(1615)水野勝成が六万石で入り、同5年、勝成移封後、松平忠明が十二万石で入城すると
荒廃した城の大修築を行った。廃城中の伏見城から城門四基が移されている。
その後、本多氏二代、松平氏一代、本多氏五代を経て、享保9年(1724)に柳沢吉保の子吉里が甲府から
入封し、以後15万1千石の格式を整えた柳沢氏の居城として明治に至る。
近年隅櫓や多聞櫓が復元されているが、城郭遺構の本格的な調査も始まっている。
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