岸和田城レポート
落城日 2001年4月1日(日)
落城者 かずひろ まこ けんちゃん ぞっどさん うえっち ともや やすくん ばんちゃん くまちゃん 以上9名
 せっかく堺方面に来たのだから、落城して行こうと
いう事で選ばれたお城がここ“だんじり”で有名な岸和
田城。下の歴史にも書いていますとおり4/1はお城祭
りでにぎわっていました。出店やギャルの集団、はたま
た公園を埋め尽くす赤い顔をした若人達・・・。
 こういう時ってしらふの人間からするとからまれたりし
たらさぁ〜大変。自分はアルコールが一切ダメな人で、
公園から漂ってくるアルコールの臭いに酔っ払う勢いだ
った。

 次に落城されるお城はどこだろう・・・?せめて四月は
多くのお城を落城したい!そんな気持ちの我々でした。
【岸和田城の歴史】
 千亀利(ちきり)城とも呼ばれるこの城は、1334年(建武元年)、楠木正成の一族
和田高家が、今よりも東の「岸」(現在の野田町)に築城したのをはじまりとします。

 その後、数代を経るうちに今の地へ移され、豊臣秀吉が紀州一揆制圧後の
1585年(天正13年)、甥の小出秀政をこの城に配し、1597年(慶長2年)、五層の
天守閣や城郭、掘などを備えた城が完成しました。豊臣氏の滅亡後は、
松平氏三代を経て1640年(寛永17年)に高槻から岡部美濃守宣勝が入城。
 以来、明治維新まで13代230年に渡り、岸和田藩5万3千石統治の拠点として
続きます。しかし天守閣は1827年(文政10年)に落雷で焼失しました。
昭和29年には鉄筋コンクリート造りで三層の天守閣が再建され、天守閣前の
本丸跡には近代感覚を取り入れた昭和の名庭の一つといわれる八陣の庭、
二の丸跡は千亀利公園となりました。そして現在、天守閣と櫓は市立郷土
資料館として、岡部家の遺品や武具、古文書や美術品などを展示しています。

 また、城の周辺には約200本の桜が植えられており、毎年4/1〜4/15に盛大な
「お城まつり」が行われます。
 掘は内堀のみが残っていますが、平成9年に、その周囲にあったとされる
堀の遺構が城の東側の岸和田高校敷地内から見つかりました。