【観音寺城の歴史】
近江源氏の佐々木氏、後に近江半国守護六角氏の居城で、小脇、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。
標高432メートル、南北に伸びる繖(きぬがき)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人
領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天分年間には城下
町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺
集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。
正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の1335年(建武2年)に、
南朝(吉野朝廷)側の北畠顕家軍に備えて佐々木氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれて
いたと考えられている。
室町時代の応仁の乱では、六角氏が西軍に属したため同族の京極氏に攻められている。
また、六角高頼が幕府御料地を侵略した際には9将軍足利義尚の親征を二度受け、一時的に城を明け渡すが、
奪回している。
戦国時代には改築が行われるが、六角氏は六角義賢(承禎)・義治の頃には浅井氏に敗れるなど衰退。
1568年、尾張の織田信長が上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月に信長に支城の箕作城を落とされると、
義賢・義賢は観音寺城から逃げ、無血開城した。
その後、南近江には安土城が築かれ廃城となったとされるが、その後も活用されたとも言われる。 |