【今治城の歴史】
「関が原の合戦」で戦功のあった藤堂高虎は伊予半国20万石の太守となり、
瀬戸内海の交通の要衝であり、西国大名の動向を探るうえにも軍事的に重要な地でもあり、
水軍を率いて巧みな高虎は、今治の地の海際の砂丘の浜辺を新たな城地とした。
内掘・中堀・外堀と三重の水堀を巡らし、海水を引き入れた平地の平城であるが、
軍船停泊の舟入部まで設けた巨大な海城でもあった。
今は本丸周囲の内堀しか残っていないが、幅の広い堀、犬走りのある石垣、
石垣上には隅櫓が立ち並び、多聞櫓を建て回した本丸に高虎好みが良く表れている。
往時は、現在残っている城域の10倍程の広さを誇り、かって本丸には五層五階の天守が
天守台を設けることなく(本丸の石垣は、野面積みの高さ14.5m)、平地に建っていた。
この天守、高虎の伊賀上野転封に際し、解体され運搬される予定であったが、
徳川家康の天下普請・丹波亀山城築城の命があったため、この解体した天守を
献上(明治10年まで存続)している。
築城は、1602年(慶長7)から2年3ケ月かけて行われ、城下町の形成もなされた。
慶長11年、江戸城縄張りの功により、備中2万石を加増され22万石となる。
1608年(慶長13)、高虎は伊賀伊勢・津に国替えとなり、今治の地は飛び地となり、
養子・藤堂高吉が2万石を領し居城する。
1635年(寛永12)、藤堂高吉は伊賀名張に移り陣屋を構える。替わって、
松平定房(徳川家康の甥・兄定行の伊勢桑名から伊予松山への転封に従う形)が
伊勢長島より3万石で入城する。
以後、松平(久松)氏が10代続いて明治維新を迎える
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