今治城レポート
落城日 2004年9月25日(土)
落城者 ともや 以上1名
 【ともやくん 掲示板書込みより】
先日、雨の中、会社の友人と道後温泉までツーリング行ってきました。
今治城を落としてきたので、ご報告します。
これって四国初ちゃう?
【今治城の歴史】
 「関が原の合戦」で戦功のあった藤堂高虎は伊予半国20万石の太守となり、
瀬戸内海の交通の要衝であり、西国大名の動向を探るうえにも軍事的に重要な地でもあり、
水軍を率いて巧みな高虎は、今治の地の海際の砂丘の浜辺を新たな城地とした。
 内掘・中堀・外堀と三重の水堀を巡らし、海水を引き入れた平地の平城であるが、
軍船停泊の舟入部まで設けた巨大な海城でもあった。
 今は本丸周囲の内堀しか残っていないが、幅の広い堀、犬走りのある石垣、
石垣上には隅櫓が立ち並び、多聞櫓を建て回した本丸に高虎好みが良く表れている。

往時は、現在残っている城域の10倍程の広さを誇り、かって本丸には五層五階の天守が
天守台を設けることなく(本丸の石垣は、野面積みの高さ14.5m)、平地に建っていた。
この天守、高虎の伊賀上野転封に際し、解体され運搬される予定であったが、
徳川家康の天下普請・丹波亀山城築城の命があったため、この解体した天守を
献上(明治10年まで存続)している。
築城は、1602年(慶長7)から2年3ケ月かけて行われ、城下町の形成もなされた。
慶長11年、江戸城縄張りの功により、備中2万石を加増され22万石となる。
1608年(慶長13)、高虎は伊賀伊勢・津に国替えとなり、今治の地は飛び地となり、
養子・藤堂高吉が2万石を領し居城する。
1635年(寛永12)、藤堂高吉は伊賀名張に移り陣屋を構える。替わって、
松平定房(徳川家康の甥・兄定行の伊勢桑名から伊予松山への転封に従う形)が
伊勢長島より3万石で入城する。
以後、松平(久松)氏が10代続いて明治維新を迎える