福知山城レポート
落城日 2003年5月3日(土)
落城者 かずひろ ばんちゃん もろちゃん ムロちゃん ディオさん 竜ちゃん しのら〜 Danくん 瑠加さん 竹ちゃん ペコ knobさん とよまる ガスくん 以上14名
2003年度GWツーリングの待ち合わせ場所に持ってきた
のが福知山城です。
今回は残念ながら時間の関係で中を見る事が出来ませんで
したので正式な落城にはならないですが、結構近くまで行って
写真を撮ったので、これでよしとしようかと思います。
下の歴史でもあるように、かの有名な明智光秀がリフォーム
した城でもあるので、今度行く際にはじっくり中まで見て勉強
しようと思います。
お堀というか、城の周りは綺麗に整備されており噴水や小川
が流れており、休日には沢山の人や家族、犬の散歩と憩いの
場所になるのではないでしょうか?
遠くから見ても城が建っているなってわかる位立派なお城です
よ。一度散策してみてはどうでしょうか?【福知山城の歴史】
もともとは小笠原長清の後裔塩見大膳頼勝が横山城を築いたのに始まる。天正三(1575)年に
織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀は天正七(1579)年六月に横山城の塩見大膳信房、
八上城の波多野氏を降し丹波一国を平定、横山城の地を新たに福知山と命名し改修した。
築城に当たっては付近の寺社などから墓石や五輪塔等を多数供出させている。光秀本人は
主に亀山城を丹波での居城とし、福知山城には甥で女婿にあたる明智秀満を置いた。
光秀が女婿の細川忠興の宮津城を訪れ天橋立で遊興した際には福知山城に立ち寄って
秀満の饗応を受けた。
光秀は民政にも力を入れ、地子銭免除や河川の改修などの善政をしいたとして、民衆の高い
支持を得て、江戸時代から御霊神社に祀られるなど敬慕された。織田信長に羽柴秀吉の備中高松城攻めへの援軍を命じられた明智光秀は天正十(1582)年
六月一日夜半、亀山城を進発した。光秀は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止、
ここで進路を京都に向かって東に取り、六月二日早暁に信長の宿所、本能寺を襲撃、信長は自刃した。
信長の嫡子・信忠も妙覚寺に投宿していたが、これも光秀により攻められ、信忠は二条御所に立て籠ったが、
これも抗戦の末自刃した(本能寺の変)。光秀は畿内の制圧に奔走したが頼みとした細川藤孝・忠興父子や
筒井順慶などの寄騎衆の協力が得られず右往左往しているうちに、備中高松城攻めの羽柴秀吉が
城将・清水宗治の自刃で毛利氏との講和をまとめ、電撃進攻で京へ向かった(中国大返し)。
六月十一日には秀吉隊の先鋒、中川清秀が天王山を、高山重友が山崎を占領し、明智軍先鋒と小競り合いとなる。
六月十三日、丹羽長秀・織田信孝隊が秀吉隊と合流、両軍は山崎で明智軍と激突したが(山崎合戦)、
明智隊は総崩れとなり勝龍寺城へ撤退、光秀はさらに坂本城に撤退する途上、山城国伏見郊外の小栗栖で落武者狩り
の土民に襲われ落命した。秀満は六月十五日に坂本城に火を放って自刃した。光秀死後は、天正十四(1586)年に羽柴秀勝配下の城代、杉原家次が置かれ、その後青山氏、桑山氏、小野木氏が城主に任じられた。
慶長五(1600)年の関ヶ原の役では小野木重勝は西軍に属し、細川幽斎(藤孝)の守る丹後宮津城を攻めたが、
細川幽斎の才を惜しむ朝廷の命により和議となり、福知山城へ撤退した。細川忠興は徳川家康の許しを得て、
福知山城、亀山城を包囲し開城降伏を迫った。亀山城の前田茂勝はすぐさま開城したが、福知山城の小野木重勝は
井伊直政を仲介に和解を探る一方で細川軍と交戦、家康の使者、山岡道阿弥(景友)が仲裁に入ったことにより、
重勝は助命を条件に降伏開城し剃髪した。しかし忠興は重勝を許さず、十一月十八日に自刃を余儀なくされた。
その後は有馬豊氏が入封し、福知山城を近世城郭として改修整備した。
その後は岡部氏、稲葉氏、深溝氏と城主が変遷、寛文九(1661)年、朽木稙昌が入封し、以降朽木氏13代が続き明治の廃藩置県で廃城となった。