【安土城の歴史】
信長はこの城を丹羽長秀を総普請奉行に据え、足かけ7年の歳月をかけ完成させた。築城の目的は岐阜城よりも京に近い
ため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから信玄亡き後信長の最大の脅威であった上杉謙信の
上洛を阻止できる立地条件にあったためとされている。その規模の大きさ壮麗さは太田牛一や宣教師の記述で明らかなように
天下布武、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の壮麗な天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は
山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
1582年(天正10年)本能寺の変の時は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、本能寺の変による信長の横死を経て山崎の
戦いの後、賢秀・蒲生氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。その後、天主とその周辺建物
(主に本丸)は焼失した。原因にはいくつかの説がある。一つは織田信雄軍が誤って焼き払ったという説である。
これは当時の宣教師の記述によるもので、その記述には織田信雄が暗愚だったので放火したとある。
もう一つは明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説、さらにもう一つは、略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説である。
そのほか、雷が落ちて消失したとする説もある。
いずれにせよ、本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議ののち入城したりと、主に二の丸を
中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、1585年をもって廃城されたと伝わっている。
現在は干拓などによって湖岸からやや離れ、小高い山の全体に城郭遺構が分布しており、当時の建築としては城山の中腹に所在
するハ見寺の境内に仁王門と三重塔が残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。滋賀県は1987年から20年計画で
安土城の発掘調査を行っており、南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を
目的に建設したとみられる本丸御殿などの当時の状況が明らかとなりつつあり、併せて石段・石垣が修復工事されている。
安土城は早期に総石垣で普請された近世城郭であり、以後の城郭建築に影響を与える存在だった。そして普請を手がけたとの由緒を
持つ石垣職人集団、いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。
ただし安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、特定の「穴太積み」なる技法の存在を想定するのは難しい。
【天主について】
天主のその具体的な姿については長年研究が続けられており、多数の研究者から復元案の発表が相次いでいる。基本的には
同時代人の記述にかかる「信長公記」或いはその善本である「安土日記」に基づき、イエズス会宣教師の記述を加味するところまでは
一致しているが、解釈をめぐっては各人意見が分かれており未だ決着を見ない。その姿は五層七重で最上層は金色、下層は朱色の
八角形をしており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされる。
加賀藩大工に伝わる「天守指図」を安土城の天主の設計図とし、内部は階層を貫く吹き抜けで、地階に仏塔があったなどとするむきも
あるが、根拠としては問題である。そして決め手のひとつとなるべき、信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の
屏風が、ヨーロッパに送られ教皇庁に保管されているとの記録に基づき捜索も行われたが未だに発見されていない。
1992年、セビリア万国博覧会に出品物として安土城の天主の上層二階を再現した。
ここで展示された天主は現在安土町の博物館「信長の館」に保存されている。 |