映画「赤頭巾ちゃん気をつけて」

先週末に映画「赤頭巾ちゃん気をつけて」「白鳥の歌なんか聞えない」(以下、映画赤、映画白と省略します)を念願かなって見ることができました。今日はその感想を書かせていただきます。

まず、お伝えしたいのは、ぼくが小説の薫クンシリーズを読んだ回数が10回や20回ではなく、おそらく100回近くは読んだことがあるということです。社会人になってからも、最低毎年1回は通読していますし、気分によって赤・白・黒・青を読み分けている回数まで含むともっと増えるかもしれません。

薫クンシリーズのファンの皆さんは良くご承知の通り、この一連の小説は、一人称を使った、饒舌でかなりディテールにこだわった私小説であることは言うまでもありません。

ぼくの興味は、その薫クンのモノローグを90分の映画にするにあたって、どれだけ小説の持ち味を壊さずにディテールを刈り込んでいるかということでした。

演技の質なんかは問わず、意地悪く言うと、ぼく自身が心の中に持つ映像に比べ、製作者が持つ映画赤、映画白のイメージはどうなのか?って感じです。

特に白が強烈なストーリー性を持つのに対し、赤は文字通り薫クンのたった1日の行動を語った動きの少ない場面の連続です。これをどう仕上げたのか?

結論から言うと、予想以上のできばえでした。「赤頭巾ちゃん気をつけて」が映画化される時の苦労話は「バクの飼い主めざして」を読めばわかりますが、庄司薫氏と映画関係者が知恵をふりしぼって製作した跡が見えます。

映画の中で特に鮮明に印象に残っているシーンは、足の爪をはがした薫クンが自転車でテニスコートに駆けつけたとき、鮮やかな黄色のリボンで髪をおさえた由美が、知らん顔してテニスコートの地面を蹴っているシーン、見事に由美のキャラクターを再現しています。残念だったのは、小説の最後、薫クンが「海のような男になろう、森のような男になろう」と決意するシーンが映画赤では刈り込まれてしまっていたことです。まぁ、映像では表現するのが難しいかもしれませんね。

しかし、10年ぶりに風邪を引いたり、使い込んだ万年筆をなくしたり、ドンが死んだり、爪をはがしたり、ほんとに最近ついていなかった薫クンがこのたった1日の経験でたちなおることができたという、おそらく製作者側の意図は充分に表現されていた映画赤でした。

散歩学派 おおはし