光明寺

光明寺縁起によれば、京都本願寺八世蓮如上人に深く帰依した海老名季重(すえしげ)は出家して導誓と号しました。蓮如上人を助けたことで、光明寺の寺号を貰い明応5年(1496)寺を開基したとありますが、当初は今のように威風を誇る広大な建物と違い、本堂の前に残っている雌雄の銀杏(ぎんなん)の樹の間にこじんまりとしたお寺であったようです。
物凄い台風が播州地方を駆け抜けた翌朝、沖合を多量の材木が流れているのが見つかりました。集まって来た面々は大騒ぎとなり、ほうっておくと港の沖合を潮に乗って流れ去るであろうし、港の中に入って来れば定置網を破る(おそれ)が出るので皆で舟を出し材木をひっぱりに出て行きました。材木は九州方面から上方(かみがた)にでも海路輸送をしている途中台風に会ったものか、あるいは何処かの貯木場から流れ出たものか、何れにせよ昔の事とて情報網もなく恐らく同じ様に近海の浜辺の村々も流れ着いた材木を有難く頂戴したことでしょう。
思いがけない海からの贈り物とばかり、村の人は相談の結果台風のために諸々の被害を(こうむ)った方の供養にもなると、傷んでいる光明寺を建て替えることになり、流木騒ぎも一件落着致しましたが、建て替えの費用は一軒前幾らとの割り当てが出せなく、神戸方面まで出稼ぎに行った人もあったとか又不足材木は矢野の山から買い求めました。大柱の一本の(けやき)の色が違っているのは其の様な理由があったとのことです。銀杏の後へ威風堂々間口十一間の大伽藍が出来たのは、明治13年4月赤穂の木津の大工の手によって建直したものが現在の光明寺の本堂です。