市五郎椿

瀬戸の内海より深く入り込んだ小さな漁村オオ村に、餅屋の市五郎と云う好々人がいた。日々の生活の中では貪欲(どんよく)(むさぼり)・瞋恚(しんに)(怒り)・愚痴(愚かでものの道理を解さない)の煩悩を一切脱却して一生を送ったといい伝えられているが、村にある菩提寺の光明寺は火事ですべての物を焼失した為に、正確な彼の生い立ちや家族の関係は一切不明である。
しかし此の長閑(のどか)な漁村に、彼の人となりを伝える数々のエピソードは親から子へ、子から孫へと語り伝えられており、人間ばなれのした微笑(ほほえ)ましくも誇大美化された生きざまが現代までプロフィ一ルされている。
語り継がれた物語も、文化・安政年間を始めとし、それ以後に書き加えられた妙好人伝、更に戦後光明寺に建立された頌徳(しょうとく)碑も後人が市五郎を(しの)んで残したものであるが、市五郎の手によって今に残されている唯一つのものは、狐タオ近く網の浦へ下る段々畑の崖渕に残る椿だけである。語り継がれた中の話では寒中に仏様に供える花に色どりが無くなるので植えたのだと言われているが
いずれにしても深く入りこんだ海辺の日溜りは二度咲かすと語りつがれている程、開花の時期が長い。「耕して天に至る」といわれる瀬戸内海特有の段々畑も、食糧事情が豊かになればかえりみられることなく、今は雑木林へと変化した中で大木に育った椿から落ちた実が、子や孫の木となって花を咲かせている。
段々畑にカーブを切って美しく伸びていた早春の青い麦畑の崖際にスット立っていた二本の市五郎さんの椿も今は一本だけとなり、昔日を知る者にとっては感無量、幻の中の椿となってしまった。なおこの椿は平成6年3月28日、市の天然記念物に指定された。