相生小学校

明治5年7月政府は「邑に不学の戸なく不学の人なからしめん」として学制を発布した。
寺子屋教育で世々海老名氏を師範として村の教育を(ゆだ)ねていた相生も、翌6年2月村の民家を借用して小学校を創立、当時は飾磨県に属していたので「第三大学区飾磨県管内第三十番中学区赤穂郡第五十八番小学海臨学校」と云う名称で発足した。
9年には湾頭を埋立て新式の本格的な校舎が建築されて『報辰楼の影水面(みのも)に映えて風致を添えた』と云うが、当時県下に於て新式の学校様式の校舎は、当相生の海臨学校と美嚢郡三木町にあった1校だけであった。
羨望された新校舎も新築に際しては、教育に対しての村人の理解も少なく、寺の再建問題もあり、経済的負担が大きく難航したが、幸な事に鷹取山林の民有払下げにより、伐木代金と県よりの補助金等もあったが、相生の若人の教育に日頃より情熱を傾けられ、教育の是非を唱えて、学校建設に強く同意されていた濱本彌三兵衛氏が、旧番所並びに旧蛭子神社の一部の売却を引き受け協力された。此の事は新築を可能にする一助にもなった事は否めない。
子弟の教育に関心が広がり町も順次発展し、海浜の自慢の学校も狭くなり、天神山(あざ)西の脇に、新校舎を建設、尋常小学校に高等小学校を併設、小学は6年間、高等科は2年間となり、相生尋常高等小学校と改称した。
揖保郡に属していた野瀬が、明治22年赤穂郡の管轄となり、31年に相生小学校と合併し天神山の小学校へ合流する。
明治33年小学校令が改正され、授業料が廃止される事により、小学校教育に対しての社会的認識も高まって来ると共に、彌三兵衛氏に請われ明治25年に相生村村長として村政を任され、爾来20有余年東奔西走、教育に・水産に・林業に・衛生にと峻腕を駆使、又造船の町として礎を築き、村から町へと大きく飛躍させた唐端清太郎の恩恵を受け、町の人口は著しく増加し、ここ天神山の校舎も次々と増築や大改造をしたが飽和状態となり、大正9年に相生字千の山(現在地)に新築し、大正13年には暫時待機の学年も吸収、全校生が千の山校舎に移っている。
以後千の山校舎は立地的条件や環境も()る事ながら2千人以上の生徒が勉学に運動に(いそ)しむ園となり、時代背景も影響した事もあるが、盛大な躍進と云う言葉そのまま一番華やかな時代を迎え、光り輝いていた小学校であった。

小学校入口地蔵尊





       ユーカリの木