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年月日 ご 意 見
05.06.07
「3月10日掲載の件に関連して」
  歴史は作られ創造されることも、ままありますが、事実関係から史を確定し、単なるノスタルジーでは無く、今後のこの街の将来について興味と理解を持たれていることに感服しています。
 ここに住居を構える以上、だれもが無意識のうちに、この街について色々な考えを持たれていると思います。
  この街は、鎌倉幕府成立前に、播磨海老名家によって開かれた半農半漁の寒村で、海老名家も一時期衰退していたらしいが、赤穂浅野家により由緒ある家柄を見込まれこの村の庄屋として明治中頃まで漁業権持つオオの庄屋であったと聞きます。
 この街の海老名屋敷の瓦屋根が大谷町の河井宅屋根に移築されたが最近、瓦のき替えで海老名の遺構の一部が又消失してしまったことは寂しいかぎりです。この町は明治末より、造船と共に発展してきた町ですが今、企業城下町に依存してきたツケが、この町の衰退に拍車をかけているように思われます。
 相生市を昭和27年ごろ書かれた西崎氏(中国日日新聞相生支局勤務)の著によれば、この街へ濱本家が招いた天才書家 伊藤明瑞氏はこの街の将来についてこう述べている。
 この相生市は日本一の最低の市である。この市が造船のみに頼っていれば、将来は無いこの市の発展は、他業種の企業誘致や街灯を設置し街を明るくすることが大事である。それから龍野町(当時市ではない)や揖西町との合併が急務である。
 この文は伊藤明瑞氏の昭和20年前後の発言と思われる。平成のこの時代にも通ずるものがあるのではないでしょうか?。
 
市井の輩より。
05.03.10
相生の歴史を調査するに当たって、町の旧名は不可欠と思います。何故上町をかみじょと発音するのか。法要の光明寺への納金に何故”上”を書くのか、上は昔は幕府のことを言います。そして何故上町一丁目が大谷の奥から一丁目としなかったのかを考えるに、元光明寺の場所を上町一丁目であったから、その場所から、浜までを上町とし、新しく埋め立て場所に光明寺を移設、そして更に埋め立てを進め今日の相生になったと推定しております。光明寺の西面から東側を上町としたと思われます。光明寺の移設の時、その跡はお寺の土地として残っているはずです。お寺の地所が元光明寺の跡と推定します。木下さんの家が昨年五月壊された際、古文書が発見され、光明寺絡みは光明寺に寄付され他は市へ寄付されました。木下さんの家は江戸時代からの古い建物でした。隣の利根さんの家も同じく江戸時代の建物で元我が家のでした。大正末期に利根さんへ売りました。当時我が家は台湾へビジネスを展開していましたが、世界恐慌、台湾製糖、台湾銀行の破綻で我が家も破綻、店を利根さんへ売り現在地に家を建てました。いずれ買い戻す予定でしたが、壊されてしまいました。これで上町の江戸時代の建物が消えてしまいました。龍野市では古い建物は市の支援によって保存されていますが、相生市はどうにもなりません。木下さんも壊す前に市に相談しましたが、残念でした。光明寺の地所と木下さんの古文書を一度調べてみてください。出来ればコピーをとり、古文書の解読により場所と大きさが分かる筈です。私の推定では旧光明寺の規模は現在の半分の大きさと推定しております。もしコピーをとられましたら一部頂けませんか、解読にチャレンジしたいと思います。
これは参考になるかも知れませんが、幕末の志士坂本竜馬は土佐の上町一丁目で生まれました。そこにはお寺があります。
 通り名について今地図を自分なりに作っております。完成の暁には通り名を記入してメール致します。
 05.03.04 歴史は古い町名と絡んでおります。昔の町名に戻る事が可能ならば町づくりのパワーで何とかなりませんか。現在の町名には中々なじめません。分かるのは川原町だけです。
 05.03.01   おおのお祭り楽しく見せていただきました。
青年団活動をやってた時代を懐かしく思い出しました。
叉、子供時代よく遊んだ場所の由来が詳しく説明されていたのに驚きました。
知らないことばかりです。次の世代に残すいい資料だと思います。
次回は獅子舞1つ1つの言われも教えて下さい。期待しています。
これだけの資料集めご苦労様です。感激しました。