小説「素足の娘」より抜粋

(前略)と、私は急にその鶏の声ではっきり目が覚めた。(中略)

階下は魚屋()であったが、可成り大きいらしく、(中略)

起き上がって雨戸をくると、細い紅殻格子の向うに、温かそうな冬の陽を浴びた、ごたごたした一廓の家並が見えた。この家のすぐ前の道に沿って広い川()があるが、川には水は殆ど無くてごろごろと石ばかり白い肌を見せている。(中略)

「私、学校へゆきたいわ。実科女学校()でもなんでもいいから」(中略)

相生と書いて、おう、と読ませるこの町は、瀬戸内海の小さな港のひとつであった。一里ばかり出て行けば、山陽本線の那波という停車場へ出る。それは神戸と岡山の中間にある小駅であった。相生からは、小豆島へ渡る航路()があって、四国八十八箇所のひとつである小豆島へ渡ってゆくお遍路さんの姿を見かけることもある。(中略)

角になっている魚屋の、川に向った片側道()は、小さな二階家が立ち並んで、どの二階も職工たちに貸してあるらしく、窓ぎわには青い服やシャツやどてらなどがぶら下げてあったり、何となしにごたごたしていた。石ころばかりの浅い、広い川の少し上手には、古風な、幅のある石
橋()の向うに、山を背にして、この町の氏神()だという大きな神社があった。神社への橋を渡らずに右へ折れると、狭い道を挟んで、生ぐさい小さな魚屋などの多いのも、この町らしく、その路はやがて、浜からまっ直ぐ続いている広い、この町中での賑やかな四ツ角()へ出る。四ツ角の右向いは呉服屋、左手の向いは、雑貨屋。手前の両角は、廻漕問屋と、八百屋である。それを上の方へゆかずに浜の方へ歩くと、このあたりにはやはり珍しそうに連れ立って買物に歩いている職工のおかみさんや、子供や、舟から上った漁師や、何かの用事で街へ入ってくる職工や、そんな人たちが陽を浴びて往来していた。

左手には間もなく海がひらけ、道は片側道になっているのであるが、このあたりには、町の資産家らしい門口の広い、土蔵などを持った家も二三軒あった。菰をきせた松などののぞく庭に土塀をめぐらして、ひっそりと門を閉ざしている家もある。海へかかる手前の左の角も、町一番の呉服屋で、ガラス戸の中の広い土間に反物が下げてあって、職工のおかみさんたちの姿が見かけられる。石垣で築いた片側道を先の方へゆけば、水月荘()という大きな旅館があって、その前が造船所へ通う渡()し場になっている。(中略)水月荘は新しく建て増したらしい新館をつなぎ、その隣は薄藍色洋風の二階建の町の公会堂()であった。水月荘のうしろ手に、私のいる魚屋の前を流れている川がここで海へ合していた。尚この川の橋を渡って、道は、途中の小さな村を通って、那波へ通じているのであるが、神戸の本社や、その他の造船所関係の往復が劇しく、人力車や自動車や、そして、以前からある馬車などが、始終ここを通ってゆく。

もとへ戻って、港口の大きな呉服屋の裏手を覗くと、そこが石垣で防波堤の造ってある魚市場
)で、漁船などもつないであり、その向うは、山の裾の道に、海へ向って銘酒屋などを挟んで、漁師の家が、魚など干していたり、亭主の仕事着が竿にかけてあったりした。

浜屋呉服店()という、場所にちなんだような名前のその呉服屋のすじ向いの、つまり、この町のもの持ちらしい家の間にある、石の鳥居のある恵比須神社()の角を左へ曲ってゆくと、私の二階借りの魚屋へ出るのだ。(中略)

私たちは浜屋呉服店の裏手から魚市場の前をよぎり、向いの山裾の道を、また海に沿って歩いて行った。この路をまっすぐ行けば、造船所のある山と向い合って入江の口を両方から締めている、その片方に出るので、つまり丁度、造船所の船渠なども真正面に眺められるところ()に出るのであった。

その途中に、漁師の家に挟まって銘酒屋が並んでいるのである。この一軒に父のなじみの家()がある。

私たちはもうその頃、魚屋の二階から、今度は、浜屋呉服店の通りを少し上の方へ行った小間物屋()の二階へ移っていたが...(後略)

注記)佐多稲子が住んでいた家は諸説があるので1212のように併記しました。