写本画像を書き写す――概説
前章の画像でおわかりいただける通り、現代人にとって、写本の文字は必ずしも読みやすいものではありません。写本の文字を現代のアルファベットに書き直
し、読みやすくすることをトランスクリプション(transcription)と言います。写本を読み一行ずつノートに書き写す、という作業に関して、か
つてなら、筆者が言えることなど何もありませんでした。すでに、アルフレッド・フーレとメアリ・ブレイクリー・スピーアが『古フランス語テキストの校訂に
ついて』*で述べたとおり、ルーズリーフを使えば便利だったでしょう。
*On Editing Old French Texts (Alfred Foulet &
Mary
Blakery Speer, The regents press of Kansas, Lawrence, 1979)
しかし、現在では筆者が推奨するまでもなく、ほとんどの研究者がコンピュータ上でトランスクリプションを行っているでしょう。ルーズリーフとは比較にな
らないほど便利だからです。とはいえ、どのように使うのかによって、便利さに大きな差が出るのがコンピュータです。ワープロソフトを使って写本を書き写し
ただけでは、コンピュータを利用しているとは言えません。電子タイプライターを使っているのと変わりがないからです。本章で紹介するのは、コンピュータで
トランスクリプションを合理化する方法です。
写本画像を書き写すと一口に言っても、様々な段階があります。先にあげた写本の画像をもう一度見直してみましょう。
いくつかの文字が現代のアルファベットとは若干異なっていることは、すぐにおわかりいただけると思います。行頭のsansの二つ目のsや行末の
dep_tisのdとsは、なかなかそれとは見分けにくいものです。
略語が使われていることにも注意してください。gntのnの上にaが書かれています。これで、grantと読みますし、damaigeの最初のaの上に
は横棒が書かれています。これは、mやnの省略です。したがって、この単語はdammaigeと読みます。最後のdep_tisではpの上に横棒が書かれ
ています。p_はparとかperの意味です。ここでは、departisと読みます。
現代語のような句読点がないことに、お気づきの方もあるでしょう。実を言えば、それ以外に写本を写した人、つまり写字生のミスという問題もあります。た
とえば、dep_tisの横棒を引き忘れて、deptisとなっている場合などがあります。
また、中世の写本ではjとi、uとvが区別されていないのが普通です。ieがjeを表したり、jestがiestを意味したりします。書き写すといって
も、どのように書き写すのかで、できあがるテキストが全く異なってくる、というのがおわかりいただけるでしょう。
トランスクリプションの最初の段階では、写本を多かれ少なかれ忠実に再現します。句読点はつけませんし、jとi、i,
uの区別も行わない場合もあります。歯切れが悪いですが、どの程度、写本を再現するのかは研究者によっても異なるのです。
本書では、次のような規則をたてて、写本を再現することにします。
- 文字は現代語のものを使う
- iとj, uとvは区別する
- 略語は解釈する
- 句読点はつけない
ここで問題になるのは、三番目の略語の解釈です。略語は多くの写本に共通する慣習にしたがっていることが多いのですが、それでも、解釈の難しいものがあ
ります。それに、略語の適切な解釈、一貫した解釈は研究者にとっても、かなり難しい作業の一つです。実際、etを表す略語をある箇所ではeと、別の箇所で
はetと解釈している例などが、非常に優れた研究者の校訂本も見られます。最初の段階では略語もそのまま再現する研究者もあります。
次のような具合です。
ところが、上のようなトランスクリプションは、通常のワープロでは実現不可能です。いや、もしかしたらできるのかも知れませんが、非常に手間がかかるで
しょう。それに、何より困るのは、いったん、上のような書式をつけてしまうと、略語を解釈し、
Sans grand dammaige ne sera departis
というテキストを作るのに、かなりの手間がかかるということです。いちいち、略語の箇所を選択して、キーボード入力をやりなおすか、あるいは、一から入力
をやり直すということにもなりかねません。
しかし、上のようなトランスクリプションの方法にメリットがあるのも事実です。まず、研究者の主観が入り込む度合いが低いですし、写本と見比べた場合、
より「写し間違い」を発見しやすくなります。コンピュータの都合に合わせて、そうしたメリットを完全に捨て去るのは、ばかげています。研究をやりやすくす
るためにコンピュータを使うのであって、コンピュータを使うために、研究をしているのではありません。筆者が、「略語を解釈する」としたのは、コンピュー
タの都合に合わせた結果ではありません。
実を言えば、上の図は、ちゃんとコンピュータで書いたものです。元の原稿はプレインテキストで、
Sans \gra\nd da\m|mage ne sera de\par|tis
です。\gra|、\m|、\par|は、それぞれ、略語を表しています*。もうおわかりでしょう。略語を解釈したとしても、それを写本の通りに再現でき
れば、問題は解決するのです。原稿では略語を解釈していても、それが写本の通りに出力できるのであれば、写本と見比べた際に、「写し間違い」は十分に発見
しやすくなります。一方、略語を解釈した後のテキストを出力するのも簡単です。\と|を一括置換で取り除いてしまえば良いのです。いや、実は、それ以上に
エレガントなことができるのですが、それについては、校訂テキスト作成を解説する次章以降で述べます。本章では、上記のようなトランスクリプションを可能
にするのが、LaTeXという組み版ソフトを解説します。
*略語を表すのに利用する\は、欧文フォントではバックスラッシュになります。
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