僕のために泣いてくれる人 by 天才中村


私のために泣いてくれる人

中村 好隆作

 人はうれしい時、悲しい時、悔しいとき等々色々な局面で涙を流します。近頃私は妙に
涙もろくなったように感じます。女子行員の結婚式で泣き、叔母の葬式で従兄弟が
涙を流すのを見てもらい泣きしている自分がいる。父親が亡くなった時でも
泣かなかったと思うが、50才に近づくと涙もろくなった気がする。

 人はその人が亡くなった時どれだけの人が涙を流して泣いてくれるかで、
その人の生き様が見えてくると考えます。通夜、葬儀の参列者の数ではなく、
涙を流してくれる人の数です。
大会社の会長が高齢で亡くなり社葬を行えば参列者の数は膨大なものになるでしょう。
ただ、そこで本当に涙を流して泣いている人は何人いるでしょうか?
 さらにその会長が私財を蓄える事に一生を費やし、多くの敵を作りながら生きてきたのなら、
真の友人と呼べる人はいないでしょう。また、その人の家族も会長の財産が相続出来ると
心の中では喜んでいるかもしれません。よって、心の底から故人の死を悼む人は
皆無かもしれません。

 では、もし私が死んだら何人の人が泣いてくれるだろうか? 今なら家族はもちろん、
友人、同僚等多くの人が涙を流してくれると信じています。ただ、家族以外の人は
その時涙を流しても幾日も悲しみが続くとは考えられません。
毎日同じ職場で仕事してきた人が亡くなっても一ヶ月後には後任者が決まり、
前任者に成り代わって職務を遂行していくでしょう。
さらにもう一ヶ月もすれば前任者が亡くなった事も日々忘れて仕事をしている事でしょう。
感傷に浸っている時間はありません。とても寂しい事のように思いますが、
でもこれは当然の事と考えます。人の死を悼んでばかりいて仕事が進まない事は
組織では許されないからです。誰もが新たな組織の中で自分の存在価値を
見い出さなければならないのです。職場でのつながりはお互いの偶然でたまたま同じ時期に
同じ職場に重なっただけであり、仕事での繋がり以上の何物でもなく
当然と言えば当然の事なのです。

 個人よりは組織を優先する会社では基本的には職場での関係は上述したとおりと
考えますが、私的には職場はそんなに無機質なものではないと信じています。
人事担当の気まぐれと偶然により同じ職場となった訳ですが、同じ釜の飯を食った
仲間とはその偶然を活かして、少なくともその会社に勤めている間は
『いい関係』を構築していきたいと考えています。

 我々の組織にはその職場で職位というものがあります。営業店では支店長・次長・課長
から新入行員まで色々な人がいます。組織にはそれぞれ目標があり、
職位によって役割があります。目標を達成するために各人がその役割を果たす
必要があります。役割といえば堅苦しいように思いますが、私は演劇の役割と
同じであると考えます。営業店という舞台でそれぞれが自分の役を演じているのと
何ら変わることは無いと思います。支店長は支店長という役を演じ、
新入行員は新入行員の役をいかに真剣に演じるかにつきると思います。
これらはすべて舞台の上だけの事であり、舞台から下りればそれぞれただの人なのです。
それを勘違いし、舞台を下りた後(職場以外)もその役を演じ続けている人がいますが、
こんな人は劇団からの退団つまり退職後は寂しい人生を送るのでは無いでしょうか。
 職場では自分の役を精一杯演じ、職場を一歩出れば役を離れて人と人という関係を保ち、
一人でも多くの『いい関係』を作っていきたいと考えています。

 本題から大きくそれましたので、話を戻します。
 やはりどんな情況にあっても『私のために泣いてくれる人』はやはり家族と友人かな?
と思います。家族も友人も利害関係でつきあっているのではなく、一緒にいられるだけで
自分をくつろがせ、楽しませてくれるからです。

 『家族を養っている』『家族を喰わせている』と考えている人がいます。確かに家計の
収入を稼いでいるのはその人かもしれませんが、収入を得るための仕事への
”やる気”を醸成してくれるのは家族なのです。守るべき家族が無ければ仕事への”やる気”
など沸いてくるとは思えません。モチベーションの根元は私にとっては家族であると考えます。

このように、家族とは口に出さなくともお互いを支え合って生活しているものであると思います。
よって、『家族を養っている』と考えている人は不幸ではないでしょうか?
 ただ、最近の報道を見ますと、この家族の関係が壊れているように感じます。
親が子を虐待し、子が親を殺傷するという事件がいやと言うほど報道されてます。
最もくつろげ、最も安心できる場であるはずの家庭内で事件が起こる・・・社会の最小単位
である家庭で事件が起こるのは更に社会全体がおかしくなっていく前兆とも考えられます。

 守らねばならない我が子を親自らが虐待する。これは男にしても女にしても、親にあるべき
人格形成がなされないままに、セックスの結果として子供が出来てしまった
結果と言わざるをえません。

 『いじめ』の問題にしても『いじめ』が現実に行われていた学校の責任問題ばかり
取り上げられますが、果たして家庭では問題が無かったのでしょうか?
 当然教育現場には『見て見ぬふり』とか『隠蔽体質』があったと思います。ただ、
家庭では子供が『いじめ』を受けている前兆を発覚することが出来なかったのでしょうか?
普段から親が子に深く関わろうとしていれば、子供から何らかのメッセージを感じ取れていた
のではと思います。子供の霊前で教師を罵倒する親にも問題があったと思う。
最近の世の中家族から社会全体に至るまで、責任の押し付け合いが横行し
過ぎているのではないでしょうか?
 本題から大きく離れ、色々と書いてきましたが本文を書きながら如何に自分が幸せな生活を
送れているかが実感できました。
 来る年も『自分は自力で生きているのではなく、周りの人々に支えられて生かされている』と
いう謙虚な気持ちで日々暮らしていこうと心に誓い、筆を置く事とします。

ご意見・ご感想をお寄せください。
ご投稿は下記のホームからお願いします。




トップへ
トップへ
戻る
戻る