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僕のために泣いてくれる人 by 出口 正二
かけがえのない人
出口 正二
数年前、ぼくが柄にもなく涙を流してしまった話をしよう。
それは、運転中のカーラジオからふいに流れてきたリスナーの投稿だった。語り部は、あまり
聞き覚えのない女性のパーソナリティーだったように思う。ちなみに、ぼくは仕事中で、
ひとり車を操りながら、近畿自動車を大阪方面に向けて北上していた。
静江さん(仮名)は五十代のおばさん。子どももようやく自立し、暮らし向きが落ち着いてきた
矢先、八十歳を過ぎた母親が不治の病で入院した。父親はすでに鬼籍に入っているが、生前
の父には何もしてやれなかった。そのことに思いが至るとき、静江さんは心を痛めた。そして
今、母がわずかな余命の灯を細々と点しながらベッドに臥せている。いま
さら親孝行というのじゃないけれど *** 精一杯のことをしよう*** 静江さんは
そう心に誓い、連日病院に泊まり込んだ。
病院の個室に設えられた補助ベッドは、お世辞にも快眠を与えてくれるものとは言えず、毎
朝、背中と腰にちょっとした痛みを覚えなければならなかった。ただ、この病院の補助ベッド
は、介護人から入院患者の様子が見やすいようにと、高さだけは患者用のベッドと同じくらい
あるのがせめてもの救いだった。
ある夜、母が寝入ったのを確認した静江さんは、自分が寝る補助ベッドを母が臥せているベ
ッドにくっつけた。こうすると、畳の部屋に布団をふたつ並べて敷いたみたいになる。そういえ
ば小さい頃、末っ子で甘えん坊の自分に母はよく添い寝をしてくれた。ベッドに
横たわりながら、静江さんはそんなことを追憶した。
「今度は私が添い寝してあげるね」
そう呟きながら、静江さんはベッドに横たわった。はたして、母はあとどれだけ生きることがで
きるのだろうか。今にも消え入りそうな母の小さな寝息が、まるで蝋燭の残り火の
ように思われた。
真夜中、静江さんはふと目を醒ました。相変わらず、補助ベッドの上では、静江さんの眠りは
浅い。胸元で何かが動く気配があり、静江さんが目を遣るとそこには母の手が伸びていた。大
きめの窓から仄かに差し込む月あかりに照らされたその腕は、痩せて干涸らびている。鬱血し
た指先が、静江さんの薄っぺらな掛け布団の端を摘んでいた。
母が……自分に布団を掛けている。たぶん、わずかに捲れ上がった掛け布団を直してくれた
のだろう。「風邪をひいたらあかんよ」遠い過去に聞いたことのある母の声が、
今にも静江さんの耳に届くようだった。
静江さんは母に声を掛けることもなく、見開いた目を静かに閉じた。両の手で掴んだ掛け布
団を口元まで引き上げ、寝返りを打って母に背を向けた。自分の命がもうすぐ絶えようと
しているのに……。薄く閉じた静江さんの目から、涙がこぼれた。
翌朝、母は静かに息を引き取った。覚悟していたこととはいえ、それはあまりにも突然だっ
た。病院に駆け付けた二人の兄は、安らかに眠る母の顔を見て、静江さんに労いの言葉をか
けた。静江さんはそれを背中で聞き、まだかすかに温もりが残った母の手を握りしめた。
「お母さん、ありがとう」
唇をふるわせながら、静江さんは呟いた。その言葉は、これまで五十数年間の母の愛情に
対する感謝の気持ちだった。せめて昨夜、静江さんの捲れた布団を母がかけ直してくれたと
き、そう言ってあげればよかった。それが、ここ数ヶ月で唯一の静江さんの後悔だった。
腕時計を一瞥した後、ぼくは車を減速させ、岸和田サービスエリアに車を乗り入れた。
静江さんの母親が今際におこなったことはといえば、捲れた布団を自分の子どもに掛け直す
という愛情とも本能ともとれる所作だった。それを母性というのかどうか……。
ぼくは知らぬ間に、このストーリーを自分の母に被せていた。
「たぶん、静江さんの母親と同じようなことするのやろな……」
ウインドウを半開し、おもむろに煙草を吸い付けた。ハンカチが必要なほど目頭は熱くなって
いる。車外に吐き出した紫煙が、ぼくの眼に霞んで映った。
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