SFアドベンチャー
(1987年2月号)
(ハヤカワ文庫版カバー)
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サイバーパンク・ニッポンの旗手 (この見方には、本人も含めて、一部異論があるようだ)
大原まり子の作品集である。発表時期のやや古い、二、三年前の短篇を中心に、超能力者シンク・シノハラらが登場するもの五作を集めている。
何をもってサイバーパンクと称するかは、諸説入り乱れてある。本質的に、八〇年代の同時代をもっとも強く反映する作品群であり、レンジが流動的なのもやむを得ない。たとえば、未来のダウンタウンの描写がある。ハイテクでワイザツな都市の描写である。これまた“ブレード・ランナーの風景”と、総称されている。某新聞では、サイバーパンクとは、『ブレード・ランナー』のこと、と明快に定義していた。(なるほどね)。しかし、ちょっと思うのだが、ディレーニイやエリスンの描く都市と、最新のハイテク・スラム街とは、本質的に変わらないのだ。遺伝子工学の闇屋、ハイテクの個人商品云々、小道具には大差がない。
(これを遡っていくと、コードウェイナー・スミス=サイバーパンクなどという、どこかで聞いたことのある、怪説になってしまうのですが)。
これらの作品の違いを、時代の違いと言ってしまうと、身もフタもない。ただ、確かにサイバーパンクは、テクノロジーが小さく、安く、誰にでも手に入るようになった時代を反映している。“科学の世紀”二〇世紀は、屋根裏の天才科学者を葬り去ったが、一方、その終幕で、巨大科学を個人の手に収めてしまった。これは、極めて最近のことである。コンピュータが各家庭でゲームをしているなど、本来ありえない現象なのだ。誰の手にもあるハイテクこそ、ガジェットで遊ぶSFの本質に近い。それが、かつての風景よりリアルに、都市をどろどろと不透明化したと考えるべきだ。
その中に孤独がある。
大原まり子が、サイバーパンクに数えられるのは、むしろこの点ではないだろうか。“ハイテクの中の孤独”と書くと、新聞の見出し並の通俗さだ。けれども、これが小説の共通項ではないかと思えてくる。先に書いたように、“ハイテク”というだけでは、過去の作品のイマジネーションから、本質的に飛躍できていない。より高度化したオモチャのはざまで、何者にも属さず、ただ一人だけが生きていく。友はいない。表面の明るさとは無関係に――その、かつてなかった孤独が鍵になる。ただ、現代のかれらには武器がある。個人の大きさにまで凝縮された、ハイテクノロジーである。戦いの道具はあるのだ。サイバーパンクを評する意見に、よく反体制が挙げられる。巨大な体制と無力な個人という図式を撃ち破るのが、この道具なのである。
本書の場合でも、主人公の超能力者は、 (その優しさと能力ゆえに)孤独だ。しかし、優しさを除かれた後に、恐るべきパワーを発揮する。それで、彼の孤独が消えた訳ではないのだが。本書のガジェットには、ハイテクというより、旧来のSFのアイデアによるものが多い。超能力のバリエーションが、ハイテクの役割を果たしている。ハイテックなパンクという観点に立つなら、この作者の場合は、むしろ最近の作品の方が、定義に適っているのかもしれない。ここで特徴的に見られるのは、優しさと孤独との相克だろう。さまざまな悲劇が書かれている。けれど、暗い結末とは思えないものばかりだ。“明るい悲劇”というそこに、深刻さの顕れない現代の反映がある。
中では、一番古い(四年前) 「アルザスの天使猫」 に、(これも非劇的なお話)物語の最後まで持続する優しさが感じられた。 |