黐木舎


令和五年




   「西南戦争」
 
   5月19日(金)
布忍神社の戦没者慰霊碑の始めに「陸軍兵卒 松下友吉」 「明治十年三月十四日、肥後国二俣口ニ於テ戦死ス」と刻まれてます。この事を松原市文化財保護審査員の西田孝司さんに話しましたところ、詳しく調べ市広報五月号に寄稿してくださいました。
 広報 まつばら
( 画像をくり行くして下さい)

学校でも習う「西南戦争」のことに此の氏子が関わっていることもあり、私も以前からこの事が気がかりになっておりました。
三日余り暇を頂き神社の方は禰宜に任せて熊本に行きました.。
 
     
   15日(月)の午後7時過ぎに家をキャンピングカーに改造した軽バンにて出発。
広島にてG7サミットもあり淡路島、四国経由で愛媛県八幡浜から臼杵にて九州に17日に到着!
途中、自動車専用道路SA、キャンプ場にて車中泊して熊本市北区の田原坂西南戦争資料館を目指す。
 
     
  七本官軍墓地に行く。騒然と並ぶ戦死者の墓が累々と並んでいた。
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   一方、近距離にある七本柿木台場薩摩郡墓地には合同墓であったらしい。。薩摩軍は賊軍と見なされ後の時代に慰霊碑が建てられた様である。今から150年あまり前の日本が近代国家になる過程に於いて日本人同士が戦わ無ければならない訳であったが、一言で言うならば近代国家として日本の原点であり第一歩であるのかも知れない。  
 
 七本柿木台場薩摩郡墓地
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   田原坂西南戦争資料館
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  西南戦争 田原坂 高月官軍墓地
 
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松下友吉大人命の墓を見つけることは出来なかったが後日資料館からFAXで資料を送って下さった。
資料館隣の戦没者の名盤の大阪府には無かったのは、明治の初めの堺県、奈良県等の成り立ちがあったようで、奈良県に記載されていたようである。墓の位置も連絡がありました。砂岩墓石で相当に読みづらくなっていて確認が出来なかったが後日送られた資料で確認できたので次回に行ったときの楽しみにしておきたいと思います。