黐木舎



平成14年(2002年)
2月






2月16日(土)晴れ
今日は暖かいよい天気でした。
春が来たという感じです。
電話のベルが鳴る。
「ハィハィ、布忍神社の寺内ですが」
「すいません。つかぬ事を伺いますが、初宮参りの値段は幾らですか」
初宮参りの値段は幾らはないだろうと思いながら「ご祈祷料は一律1万円をお供えしていただいています。ご祈祷料で祈祷の分け隔てをつくっていません」
「お宅のお名前は・・」と聞くと「えぇぇ、ちょと値段だけ聞きたくて」と言って切る。
このように自分の名前を明かさない電話が多い。
祈祷料の安いお宮を探しているのなら、そちらに行ってもかまわない。
電話を掛けるマナーとして、電話を掛けた以上は自分お名前を告げることが大事ではと思っている。

私は、子供たちに教えた躾けの一つに、電話の掛けかたがある。
これは私が父からきつく教えられたことを、私もそのまま子供たちに教えた。
1.電話を掛けた場合、必ず始めに自分の名前を明かすこと。
2.相手は今どのような状況下にあるか分からないので、「今電話で話してよいでしょうか」と、聞くこと。
3.返事はハッキリと「ハイ」と言うこと。
親が言うのもなんだが、子供たちの電話マナーはよいほうだと思う。

電話のベルが鳴る。
「ハィハィ、布忍神社の寺内ですが」
「アァ、間違いました。すいません」と言って、電話が切れた。
又すぐに電話がなった。
「ハィハィ、布忍神社の寺内ですが」
「エェェ、寺内さんでしょ。寺内さんですよね」と先ほど掛けてきた男性である。
「ハィ、布忍神社の寺内です」
ぶっけらぼうに「XXXさんお願いします」
「お宅はどなたさんですか」と聞くと、「XXXさんを呼んで欲しいのですが」とまだ女性の名前を言うのである。
「XXXと言う人は私のところには居ません。何処かほかの寺内ではないのですか」と言うと「本当ですか」と半信半疑で言ったので「貴方もう少し電話の掛け方を勉強したほうがいいですよ」と言うと、相手に一方的に切られてしまった。

布忍神社の寺内ですと、言うのには訳がある。
寺内という姓は、この付近では何も珍しくはないが、他所に行くと少ない姓である。
この付近には寺内と言う姓が沢山あるのである。
だから必ず電話がかかれば「布忍神社の寺内」と返事をする。
それでなければ、何処の寺内か分からない。
同姓同名もあり、そこなどは屋号で呼び合っている。
私などは近所の人は寺内すら言ってくれない。
「宮さん」これで通じるのである。
宮さんなのに寺内という名前もおかしいものだ。
そこで私などはそのことを逆出にとって、名前を必ず覚えて欲しい時は、最後に「神社の宮司なんですが、宮内ではなく、寺内です。お寺ではなく、お宮の寺内です」と言うと100%覚えてくれる。
後日、お宮参りなどに来て「お宮さんなのに、宮内ではなく寺内さんですね」とユーモアーを解してくれる人に合った時などは本当に嬉しいものだ。

電話のベルが鳴る
「ハィハィ、布忍神社の寺内ですが」
「寺内さん、お元気ですか。如何してはります。私ところは、皆元気です」
「そうですか。私は寺内ですが」といっているのに、大変親しげに自分のことを相手が分かっている様に話し続ける。
私には誰だかさっぱり分からない。
このような時は必ず、お宅のお名前はと、早い段階で聞くようにしている。
こんなときの答えは「2年前に息子の子供の宮参りに行ったxxxです。」と来る。
2年前に会った人の声など覚えているはずがない。ましてや名前など電話の声だけで、分かるはずもない。
始めに2年前に宮参りに行ったxxxですと言って頂けたら、もっと楽しい電話の会話が出来たのにと思うのです。

どうか皆さん「電話を掛けた時必ず自分から名乗ってください」
名前を名乗ったからといって、必ず布忍神社にお参りをしなければ成らないということはないのですから。

神主を初め宗教人には、人の秘密を他言しないという守秘義務というのがありますから安心して名前を言ってください。
しかし例外として、深刻な悩み事などの相談においては、あえて名前を聞きません。
それ位の分別は持っているつもりです。


2月15日(金)晴れ時々曇り
久しぶりに自分の書いているこのページの全般を読み返した。
何と文章力のなさ、そうして話題性のなさ(同じようなことを何度も書いている)に驚く。
何か愚痴ばかりを書いているような気もする。
これからは楽しいことを書くようにしようと、先ほどから頭をひねるが、何も出てこない。

我が愛犬ドーンが側でいびきをかいて寝ている。
犬種はW ・コーギー。
狐顔でしっぽがない(生まれた時に断尾する)。
牛や羊の世話をする牧童犬で、イギリスで誕生した犬である。
今、生まれて1年と3ヶ月経つ。
今では家族の一員となった。
このところ、私たちの話す言葉も少しは理解するようになった。

この犬オスであるが娘が何を間違ったのか、女性名詞の名前を付けた。
このドーンこのところメス犬を見ると大変興奮す。
我が子孫を残すという本能に目覚めたのであろう。
誰が教えたわけでもないのに本能に目覚めるのは凄い。

人間の本能はどの様なものであろうか。
いくら考えても分からない。
分かる人が居れば教えて欲しい。


2月13日(水)曇り時々雨
11日、101歳の御婆さんが某老人ホームで亡くなった。
この方が神道であったことから、布忍神社の方に葬儀の依頼があり、行くことになった。
田舎が鳥取県某所の事もあり大阪に居る親族も少なく、数年前から老人ホームに入所していることもあり、老人ホームでの葬式となった。
親族の言うのには、葬儀は簡単に執り行って欲しい、神職も一人でよいと云っていると、葬儀社は私に言ってきた。
「間単に」と、言うが、簡単とはどういうことなんだろうか。
葬儀の太陽を手抜きしろということなのか。
101年の間には明治・大正・昭和・平成の激動の時代を生き抜き、101歳の天寿をまっとうした人を「死んだからといって簡単に」とはいかなることかと思った。
親族にはそれなりの考えはあるだろうが。

通夜祭を執り行いに11日の夜行くと、老人ホームの広い講堂に、6人の大人と2人の子供が居た。
参列者はこの8人と、老人ホームの職員が数名。
神職は私一人である。
「よっしゃ、私一人で立派な葬式をして、この御婆さんを天国に送ってあげよう」と、ご霊前の故人の写真を見て思った。
粛々と通夜祭、12日の告別式を行い、火葬場に行った。
この火葬場は大阪一番大きな火葬場である。
毎度のことであるが、柩の後に付いてはいると何時も驚く。

まるで世界の宗教という宗教がそこにある。
隣では某新興宗教が友人葬を行っている。その向こうでは真言関係のお坊様。大抵キリスト教もイスラム教来ることだろう。
それも同じ部屋の中で、一心にお経なり、祝詞なりを唱えているのである。
もしこれが、カトリックとプロテスタントが敵対している国ならどのように成るだろう。
このような国の人がこの各宗教が雑然と混ざり合っている風景を見たならどのように思うだろう。
交通の便が発達し、10時間余りで地球を半周できる今は、まさに地球上では宗教は混ざり合っているのではないだろうか。
お互いがお互いを認め合うことが大切なのに、宗教に関しては排他的に成る。
日本の宗教観のなさを言う人があるが、私は違う意味でこの宗教観を見習って欲しいと思う。

日本の宗教界でも、政治と一体となって勢力を延ばしている新興宗教がある。
この宗教は他宗教を認めようとしない。
もしこのような宗教がより以上の勢力を増せば、宗教的な争いとなる事必定だろう。
こうならない様に私なりに宗教者として努力しなければと思う。
このような事を思いながら、101歳で亡くなった御婆さんを天国に行って頂く為の二日に亘る葬儀も無事に終わった。

始めは簡単にと言っていた親族の方から、「丁寧にしていただき有難うございました」お礼を言われ、私も「簡単にと言われても、祭り事は手抜きできないのですよ」と伝えた。
大抵、親族の方は普通に葬儀を執り行うと費用は大変だと思ったから「間単に」と思ったのだろう。
葬儀費用のお礼(玉串料)を持ってこられた親族の方に「このお礼は私個人の収入ではなく、神社の収入なんですよ」と伝えた。
布忍神社の場合、神社の一切の収入は神社会計に入る。
私はそこから給与を頂いている給与所得者なんです。
何故なら、一般に神社・仏閣は法に定められた団体、要するに宗教法人ですから。
だからこそ、宗教儀式だけをするのではなく、宗教行為を行わなければ成らないと、私は思っています。