黐木舎


平成12年(2000年)
10月






10月29日(日)曇り一時雨
前日まで天が降り続け代替え日の5日にしようか迷った。
こんな事始めて。
あちらこちらの天気予報を見たり聞いたり。
28日(土)午後3時に明日は曇りと明日のフリーマーケット開催を決定。
29日朝の5時に起きて空を見る。
まだ暗い。
何とか持ちそうだ。
一番早い人出午前5時30分に「今日のフリーマーケットありますか?」「あります」と答える。
それから電話の波。(これ何とかならないかな、近所の人まで電話。一人だけ聞きに来てくれた、有り難い」
半分余りの出店者が来た頃晴れる。
皆さん喜びましたが、私一人不安を覚える。
「五つ晴れは傘を逃すな」と婆さんに教えられたことがある。
五つとは今の午前8時頃のこと、この時に今まで降っていた雨が止んで晴れても傘は持って行きなさいと云う、昔からの教え。
これが意外と当たる。
空を見ると、雲が東北に流れている。
「雲が京詣りすると雨が降る」これも婆さんに教えられた。
まさに雲が京都方面に向かった流れている。(私の住んでいる松原市から京都を見ると東北方面になる)
嫌な予感。
しかし曇りのまま何とか10時頃まで持つも、またもやパラパラと雨が降り出したではないか。そうして、後は雨が止んだり降ったり。
ついに12時頃本格的な雨が・・・・・。
皆さんは雨の支度をしていたが、お客さんも少なくなったので帰り支度。
仕方ないよな。
しかし元気なのは、何時のように、音楽ライブをしてくれる。皆さん少しの雨なってもろともせず演奏する。
良かった。西川さん・今川さん・アキちゃん・清水君・ケンちゃん・清継ちゃんそうして、和彦ちゃん有り難う。
あなた達のお陰で雨が降っても明るく楽しくできました。

フリーマーケット

フリーマーケット

フリーマーケット

これからまだまだ彼らのライブは場所を変えて続いた。
なんとフリーマーケット始まって12時間も焼き肉食べている以外は演奏しっぱなし。
なんと元気な方たちか。又宜しく。

焼き肉会場似てのライブ焼き肉パーティー焼き肉パーティー


10月26日(木)晴れ
朝6時に起きる。
素晴らしい秋晴れである。
あちらこちら体が痛い。
腰を悪くしてから、私はせんべ布団で寝ている。
どうもふわふわのベットは苦手だ。
何度となく夜中起きたのを覚えている。
朝食を取り一之宮貫前神社に行く。

以前北向きのお宮を探していたところ知人から群馬の貫前神社が北向きらしいと聞いた。それ以来一度貫前神社に来て何故北向きかを聞きたいと思っていたのである。
コンパスを持ってくるのを忘れたので朝日と神社の位置を見るとどうも北向きではない。
神社を清掃している人に聞くと、社殿は南向いているという。期待していたのにガッカリ。
神社で沢山写真を撮る。
詳しくは古社巡礼に書くことにする。

次ぎにネット上で知り合った人が居る。
この人に以前榛名神社のことを聞いた。
今回この人に連絡してと思っていたのだが、余りにも急なこの旅行の決定のため連絡しなかった。
榛名神社は有名神社でもありすぐに分かるだろうと安易なことと、私の車には上等ではないがカーナビゲーションが付いていると云う安心があった。
いつもは下調べを充分にするのだが、今回なにも下調べをしなかった。
以前はカーナビゲーションを余り信用していなかった自分だったが、最近に至っては全幅の信頼をしていたところに落とし穴があった。
榛名神社を検索するとすぐに出てきたではないか。そこに目的地を決めルート設定。後はカーナビゲーションが教えてくれる。
山を越え谷を越え走る走る事1時間余り、機械は着いたと云うがそこには小さな社が一つ、鳥居の額を見ると「榛名神社」何と間違いではないか。

とある村の榛名神社 とある村の榛名神社


住所だけでも控えてくれば良かった。貫前神社の由緒書きを見れども、妙義町の妙義神社・下仁田町の中之嶽神社とその他の近郊の観光地しか載ってないではないか。
探そう次ぎに見付けたのは高崎市の榛名神社。
此処も違う。
仕方がないガソリンも無くなってきたので、近くのガソリンスタンドに入って聞く。
「榛名神社は何処ですか」「そこにあるよ」まるで落語。
詳しく今までの事情を云うと、カーナビを見てこれで分かりませんでしたかと指をさして聞かれた。
そうなんだよな、榛名町の榛名神社だったんだ。
走ると山間には行って来た。来ようが大変綺麗で有る。そうして峠を越えるとそこには榛名湖が見えた。来て良かった。
一人で「良かったなー」と大声を発する。
一休みの後榛名神社に向かう。
素晴らしい神社であった。これも古社のページに載せよう。
榛名神社は奇岩の沢山ある修験道の山である。今年4月に云った山形の山寺によく似た風景であった。
今回急な旅行であったが来て良かったと思う。
榛名神社を出たのは午後3時。もう一つ行きたい神社妙義神社があったのだが次回にする。
しかし、群馬には榛名神社が多すぎる。


10月25日(水)曇り一時雨
ふと朝になって前々から行ってみたいところに行こうと云う欲求に駆られる事がある。
この日の朝は曇っていて何時雨が降ってもよいような天気であった。
予定表には何も予定がない。
群馬県の貫前(ぬきさき)神社に行こう。その様に思ったのはその様なときであった。
この事を家族に話すと、又お父さんの放浪癖が出たという顔した。
そんな朝9時頃電話が掛かる。
祈祷の依頼の電話である。
丁重に理由を云って断るが相手はどうしても云うので理由を聞くと断り切れない。旅行を諦めようと思いながら「今からなら都合は悪いですかと云うと」、相手は関係者と相談してすぐに連絡しますとのことである。
5分ほどして電話が鳴った「今からお願いします」とのことである。
祈祷の内容は、マンション11階からの投身自殺が有り、その場所の浄め祓いである。
30歳半ばの女性の自殺者はマンションの住人ではなく部外者らしい。
さぞかしマンションの人達は驚いたであろう。
私の頭の中では「何故自らの命を捨てるのだろうか」との問い続けた。
新聞でも某大手百貨店の・・・・。中学生がイジメのために・・・。介護に疲れ障害者を殺し自分も・・・・。と、いう記事が毎日のように載る。
この国は今どうなってしまったのであろうか。
死とは何なのであろうか。
一人車で行く不安もあり、今日旅行に行くのはやめようかと思った。
ご祈祷を終えて帰ってきたのは11時過ぎである。
このまま居ても仕方がない、最初の計画通り行くことにしよう。
車の中で死というものについて考えよう。
家を出たのは午後1時になっていた。
何も急ぐことはない、安全運転で行こうと思いゆっくりと西名阪自動車道を車を走らせた。
車の窓を開け走ると、秋の風は心地よく吹くが名古屋が近付くに付けやがて雨が降り出した。
私は今車を走らせている。運転を一つ間違えれば事故を起こす。そうなれば怪我で済む場合も有ろうが此のスピードでは死に直面するかも知れない。
不可価値での事故もあるだろうが、故意にハンドルを切れば確実に事故につながる。
11階から飛び降りるのと同じ事である。しかし、今の私にはそうする根拠がない。しかし私にその根拠が出来ればハンドルを切るだろうか。
恐がりの自分には出来ないであろう。そうとも言えない。誰しも死にたいと思うことがあるだろう。いや、そうとは限らないであろう。
悶々と自分に問いかけながら車を走らせた。
私には友人が多く居る。そうして自分の色々な話しをする。
私のような仕事では守秘義務というものがあって、他人秘密を他言しては成らないのです。
だから色々な相談を受けます。結構これがストレスとなる事があります。
だから自分のことは反対に結構喋り、墓場まで持って行く事も沢山持っているのですが、大半は自分の腹の内まで見せてしまいます。
自らの死を選ぶ人は、総て自分お腹にしまい込むことが多いようです。
この自殺者はどの様な悩みを抱えていたのでしょうか。
その様なことを思いながら名古屋で中央道に入り長野自動車道を通り上信越自動車道にの富岡インターチェンジを出たときは午後8時になっていた。
ホテルについて「明日は早く起きてこの群馬の地を廻るだけ廻ろう」と思う気持ちが、「死」という課題を何処かに吹っ飛ばしていた。

10月19日(水)晴れ
今日の朝の冷え込みはこの秋一番であったらしい。
秋祭りにお世話になった人へのお礼に朝から単車で廻った。もう少し早くに行かなければならないのに。
これをして初めて秋祭りが終わったと言えるのだがつい怠けて遅くなってしまう。
行くとつい話し込んで、終わったのは午後3時頃、言えに帰ると一冊の写真集が届いていた。
子供に聞くと、浦出さんという方が持ってきたと云う。
写真集は
ヒューマンドキュメント・フォトエッセイ 
「かあちゃん、ほんまにあいこでしょ」
文 浦出 勲   写真 細川義人
新風書房 
それと
ふぁみりー通信・「あした葉」なる新聞とチラシ。
チラシには 
NHK「クローズアップ現代」に出る
10月19日(木)・午後7時半より放映
(他の重大ニュースが入った場合、変更します。ご了承下さい)
キャスター=国谷裕子・ゲスト=瀬戸内寂聴

・・・・・・。とあるではないか。19日は今日である。見なければ。
私と浦出さんとの出会いは何時であったか記憶にない。
そうして近所だというのに余り話したこともない。只よく知っている。
奥さまも病院で会ったり、お宮に障害を持った人達と一緒に阪南中央病院から何度か来たので知っている。
何時も頂く「あした葉」でもよく知っていた。
いつも気が付くと「あした葉」は表の新聞受けに入っていた。
しかし、特別浦出さんに何かをしたという記憶はない。
私と浦出さんとの間柄は、この様な単純な間柄であったと記憶している。

私はこのフォトエッセイを読んだ。
写真の風景は布忍界隈の何時も見る風景、そうして知っている人達。
私は文章を読み写真を見るに付け、出てくる涙を抑えることが出来なかった。
プロの書く文章とは違い、ぎこちなさもあるのだが「この暖かみは何だろう。この素直な文体は何だろう。そうして写真も素晴らしい」
12年前交通事故によって重度の障害を持った妻を、一生懸命に介護をしてきた人の温かみであろう。
その奥様も今年の四月に亡くなられた事を此の本を見て初めて知った。
亡くなられたこと知らなかった自分に腹立たしさを感じる。
偉そうに障害者云々といっている私が惨めに軽く思えてきた。

二年前、私の知人も二人目の息子が出来て2週間目の11月15日に事故に遭いまだ意識も回復しないまま寝たきりである。
あの時の事が甦ってきた。
久しく会わない彼は今どうしてるだろうか。
一瞬の交通事故が家庭を狂わしてしまう恐ろしさ。
私も20数年前、交通事故の加害者になったことがある。
元気であろうと思われるのだが、今もこの方のことを忘れることは出来ない。
ふと思う、私が今当事者となれば浦出さんのような介護のかけらも出来るだろうか。
浦出様の娘様と私の長女は同級生でもある。

浦出さんは最後の章でこの様に書かれている。
 10年と4ヶ月の間、かあちゃんの介護も空しく、時は無情にも過ぎ去ることに気がついていた。同時に、かあちゃんと苦楽をともに暮らしてきたきたことが、さまざまな形として私の心に突き刺さった。

新風書房 Tel 06-6768-4600 Fax 06-6768-4354
定価(本体2800円+税)
どうか無駄に使うお金を一寸倹約してこの本を買って下さい。必ず素晴らしいものが見れます。


10月11日(水)晴れ
大変暑い一日でした。
朝から今日は仏滅という日でも有り、暇だと分かっていたので秋祭りの支度をしていた。
しかし、暑かった。まるで夏のような暑さである。
そんな中、石材店の社長がやって来た。参拝記念の足形が出来たので張りに来たのだ。
既に40余りの赤ちゃんの足形が奉納されているが、まだ誰も女の子で「子」の付く名前がない。
それよりもっと驚くのは、最近のお宮参りした中でも「子」の付く名前がない。
今までにも流行があったが、ここまで徹底したのも珍しい。
子供の名前の中でも、男女の隔たりが無くなり、中性化している。
今から1000年前に、女の子は「子」を、男の子には「麻呂又は丸」を名前に付けることが大変流行したそうである。
そうして1000年後女の子の名前から「子」が無くなった。
その内、何年後には女の子の名に「子」が付いたら、「この子の名前凄くぅナウイじゃん」なんて事になるのだろう。
どうも昔から日本人の気質の中に、一方向に流される物があるようだ。
回りと違うことをするよりは、同じ事をしている方が安心するのだろう。
悪く云えば独創性がないが、良く結えば協調性に富んでいる。とでも云おうか。
流行に遅れまいと必死で頑張るのは良いけれど、少しは自分自身の頭で考え自分自身の行動をしなければ良くないように思うのだが。
娘が夕食の食材を買って、スーパーから帰ってきた。
大きなテッシュペイパーの箱を持っている。
娘の云うのには、スーパーの入り口で知り合いの叔母さんに会うと、叔母さんの云うのには「今日はテッシュペイパーが安いとのこと」一通り買い物をしてレジまで来ると、並んでいる人総てがテッシュペイパーの箱を持っているのを見て、なんだか持っていない私が不安になってテッシュペイパーを買いに行ったという。
レジで並んでいると、二人後ろの人が係員にテッシュペイパーはもう無いのですかと訪ねたとき、係員は「もう終わりです」と答えたのを聞いて、私で終りだった事を知り心の中で「やった」と叫んだという。
家にはまだ沢山の買い置きが有るのに。
この娘が生まれたのは27年前である。あの時も女の子の名前に「子」を付けないのが流行だった。
我が家の3人の娘の名前にも「子」が付いていない。
この頃一見して男の子と女の子の名前が分かったが、今は名前の漢字を見ても音で聞いても分からない。
祝詞の中で名前を読もうとしても舌と唇の筋肉が動かない。
明日はどの様な名前の赤ちゃんが来るだろうか楽しみだ。


10月10日(火)
東京オリンピックがあったのは、私がちょうど高校1年生の2学期の中間試験の時である。
1965年10月10日の東京オリンピックの開会式から、36年経つのかと思うと空恐ろしくなる。
あの時の私のヒーローはアベベであり、円谷幸吉であった。
そうして、高校の通用門の横にあった本屋さんに美術手帳を見付け、その中に矢内原伊作の投稿文で初めてアルベルト・ジャコメッティの名と作品を知ったときの衝撃は今でも覚えている。
私は絵描きになろうとその時思った。
その後、私は変な取り合わせではあるが、富岡鐵斎とジャコメッティの傾倒していく。
特に私が結婚したならジャコメッティと妻アネットのような家庭を作りたいと思ったものだ。
その時から36年間美術に携わり続けているわけである。
昭和63年(1988年)の辰の年から西田画廊の西田幸作氏と二人三脚でやって来た布忍神社EMA12分の1もこの平成12年(2000年)辰の年をもって終了となる。
絵馬奉納者に確約していた21世紀の始まりの2001年の始まりに絵馬全体の大展覧会をする約束も、近鉄百貨店の行為により阿倍野店にてこの年の12月31日から年明けて5日まで(元旦は休館)行っていただけることとなった。
近鉄百貨店の各位にはなんとお礼申しても尽きないし、これまで絵馬を奉納して下さった作家の皆様にもお礼の尽くしようがない。
私は3000点にも及ぶ絵馬を、布忍神社を始め神社界の宝であると共に皆様の宝と思っている。
だから一人で多くの人に見ていてだきたい。
作家の皆様には約束を果たせそうだという事、これで絵馬展の本当の幕を閉じることが出来るという事の安堵感と共に、美術を持ってやっと布忍神社の神様に報いることが出来るような気がする。
13夜の月を見ながら、後もう少し大変ではあるが頑張ってみたいと思う今日でした。


10月2日(月)曇りのち雨
後3ヶ月でお正月ではないか。
その3ヶ月の間には秋祭りがある。
私が神職となって26回目の秋祭り、親父の跡を継いで宮司になり15回目の秋祭り。
この様に書いてしまうと「何だ、まだ15回目の秋の例祭の祭典なのか」と、思う。
しかし、このところよく、後何回の祭典を我が身は執り行えるのだろうかと思ってしまう。

先日、私の叔父から電話が掛かってきた。
「ワシもこの頃歳を取って思うように祭典が出来ない、この年の秋祭りは何とか奉仕できたがもう無理だろう、これがよい潮時だ、宮司職を息子に譲ろうと思う」と、言うのである。
その言葉の後ろには、一抹の寂しさを感じる。
この叔父は当年76才である。
私が36才の歳に親父は72才で亡くなり、重職である宮司を終えた。
病身ものであった父から見れば叔父はまだまだ元気である。
元気な内に重職な宮司という地位を後任に譲ることも大切なことかも分からない。
何時までも自分が重職にしがみついて、後任に職を譲らないのが此の世界の常である。
早くに後任に譲ることによって、組織の活性化をしなければならない事が分かっていても、自分がその年になると執拗にしがみつくのである。
最悪なのは、そうすることによって物事を私物化する事であって、経験豊かな年老いた人を切り捨ててしまうと言うことではない。
重職を後任に譲った後はそれなりの使命があり、その使命をあえて与えることが重要なのではと思うと、新しく宮司職を継ぐ従兄弟に後日電話で話した。
私の知っている先輩の方々で、宮司の時には出来なかった神道の研究に没頭した方、後輩指導をした方、境内の清掃をやり続けた方、今まで世話になった地域への奉仕等々によって神道の深意を語り続けられた素晴らしい諸先輩が居る。
しかし名ばかりの継承で、何時までも実権を握り続ける人もいるが、これほど傍目に惨めなことはない。

叔父との電話で最後に付け加えた。
「今までで出来なかったことをすればよい。宮司職を息子に譲ったのなら決して口出しをしないで、勝手にさせればよい。そうすれば1年も経たない内に父の偉大さを知るよ」と、云った。
息子には
「聞き上手になり人の云うことを良く聞く事、分からないときには知ったかぶりしないで先代宮司となる親父に聞く事」と、云った。

私の父は病の体を押して、10月15日の秋の例祭の祭典の祭主を執り行い11月7日此の世を去った。
医者から父の死期の近いことを私のみに知らされていた私は、無理矢理にでも例祭の祭主を勤めてさせることが、息子としての父への最後の贈り物と考えたからである。
あれから16年、今父である先代宮司がいれば叱られてばかりいることであろう。
叔父に云ったことは今後の、従兄弟に云ったことは今の自分に対する戒めかも知れない。