黐木舎


平成11年
10月






29日(金)晴
今とある神社の宮司様にメールを送りました。
別に良いのですが、間違って送ろうと思わないところに送ってしまいました。
これも神のなせる技かも知れません。
この内容をこのページに載せます。

貴殿のメール****で拝読しました。
私自身****での皆様のメールを読むというのではなく、見させていただいています。
ここに出てこられる人々は、どの様な人なのだろうかと考えます。
神道をどの様に解釈しているのだろうか。
皆様は、それなりの専門知識を勉強され神職の道を撰ばれたのでしょうが、どの様な意識の中で日々従事しているのだろうか。なんて諸々です。
神社神道は宗教なのか。
宗教には宗教的儀式と宗教的行為があると常々考えてる私にとって、余りにも今日の神社神道は宗教的行為をなおざりにしてるように思って成りません。
特に若い方々には云えることではないかと考える次第です。
一般の人にとって神社と寺院の違いが分からない日本人が多すぎる昨今、どれだけの神道人が表に向かってものを云ってるか疑問です。
神社を私物化し、神の存在観念すら持つことなく、ただ儀式としてのみ民衆に接している結果ではないかと考えるのです。
株式会社 何々神社 事業内容はイベント等。
神職は祝詞を読んでご祈祷するのみ。
打算的になり、宗教的儀式のみであり、前後の宗教的行為は全く成されていない。
祝詞を読むだけなら誰でも出来るわけです。
氏子数は確かに多くいます。しかし、これを他宗教のように信者数といえるでしょうか。
神社に対して貴方のお宮の信者は何人ですか問えば、何人と答えるのでしょうかね。
糞難しいご託を並べるのなら、本の投げ売りをすればいいわけです。
神主が神主とつるんで居ても何も見えてきません。
外へ出て如何に色々な人と接し、見るかだと思います。しかし、相手との距離が大切かと思いますがね。
確かに、清め塩の問題、祝詞の問題、祭事助勤の問題等々、神職として大事な技術的な事もあるでしょう。
また、このネットは神職たちの仲良しクラブを目的でもいいでしょう。
しかし、高いコンピュターを使って仲間内では淋しい気持ちがします。
神社のHPを見ても、情報発信をしてない神社が多すぎるのは淋しい限りです。
私は貴殿より一つ年上のどうしようもない団塊の世代の神主です。
日本人のナショナリティーは何処へ行ったのでしょうかね。
お互いがお互いを認め合う神道的発想は何処に行ったのでしょうか。
つらつらと書いてしまいました。
****に流すつもりはありません。
この手紙は、当神社のHPの1ページに載せることにします。

以上です。
ご意見下さい。


18日(月)晴
14日15日と当社の秋祭りであった。
無事お祭りの行事を終え、17日午前中の隣の阿麻美許曽(あまみこそ)神社のお祭りのお手伝いも終えた。
1週間ほどはゆっくりと出来るのであるが、今年はそうは問屋が許してはくれない。
秋のフリーマーケットを10月24日に控えているからである。
17日午後5時からこのフリーマーケットの場所の抽選である。
今回「抽選に来られない人は、出店を放棄したものとします」と、云う規約を出店要項の中に盛り込んだので、ほとんどの人が来るであろうと思ったのに、最終終わってみると10人の申込者が来ないという状況になった。
抽選日に来ない人の人数は、過去の抽選よりは少なくなったがやはり困ったものだ。

又、この後色々と言い訳をしてやって来るのだろうと思っている矢先に電話が掛かる。
ここにその一部始終を載せてみよう。

午後7時 電話。
「仕事が忙しくて抽選に行けなかった。今帰って来たのですがどうすればいいでしょうか」
「貴方でもよいし、代理でもよいから直ぐに来て下さい。」
「今日は日曜日だけど仕事有ったんですか。24日も日曜日ですが、フリーマーケット出せるのですか」
「24日は休みなんです」

午後7時過ぎに又電話。
「すいません。フリーマーケットの抽選日忘れていました。どうすればよいですか」
「出すのですか」
「出したいです。駄目ですか」
「既約をよく読んで下さいよ。これからは注意して下さい」「近くですから直ぐに来て下さい」
「ごめんなさい、行けないです。今から彼と会って食事をしますので」
勝手にしろ、最初から来るつもりないのとちがうのか。
「こちらで番号を決めますが良いですね」
「お願いします」

9時過ぎ玄関のチャイム
(始め省略)
「親戚の者が倒れたので、抽選に来れませんでした」
「それは大変ですね、誰が倒れたの」
「叔父様」
「代理でも良いのに、それよりフリーマーケット出すの」
「出します」
「それじゃ抽選しましょう」

10時半頃またもやチャイム
「フリーマーッケトの抽選お願いします」
「今何時だと思ってるの」
遠慮というものがないのか、それとも図々しいのか。
「忘れていたの」
「友達と会っていて気が付いたら遅くなっていて」
「次からは受け付けないよ」
「すいません」

18日早朝
「すいません、親が亡くなったものですから・・・、抽選に来れませんでした」
「えぇ、親が亡くなった。それじゃフリーマーケット駄目ですね」
「出します」
「親が亡くなったんでしょ」
「2週間後ですから」
申込用紙を3枚出す。
「これ続きの場所を希望していたんじゃなかったっけ」
「はい、だけど良いです」
「続きの場所を今頃希望しても駄目だよな、今更ね」
「だけど本当に親が亡くなったのに出すの」
「はい、余り親しくない叔父ですから」
「えぇ、おじさん」
「はい、おじです」
「親じゃないの」

皆様本当のこと云おう、嘘で言い訳するのはやめよう。
「忘れてました」でよいのに。
嘘を云ったために、又嘘を云わなければならなくなるから。

1人だけ正直に言ってきたので、来なくてよいからと云って電話で場所を教えました。
彼女は「ごめんなさい、忘れていました」「出せないのなら来年の春にしますので宜しくお願いします」
「出したいの」
「はい、出店用の品物も用意しましたが、このまま春まで仕舞っておきます」
「貴方の出店場所はXX番だから、遅れないように来なさい」

人を病気にするな、人を殺すな。言い訳の上塗りの言い訳をするな。
それをしている姿を見るのは見にくいから。

24日の日曜日、今から思いやられる。
唯一の楽しみは、皆さんの笑顔。


4日(月)
私は一様宗教人であるが、他の宗教人のように悟りを開いたりはしていない。又、神道ではその様な修行はない。
生臭坊主が居るとしたら、典型的な生臭神主である。
金にも、女にも、欲という欲に未練がある。特に生きると云うことに未練のある世俗な神主である。
その事が今日よく分かった。
今日、胃カメラ飲んだのである。
最近何かしら腹の調子が悪い。食べ過ぎているのでもないのに腹が張る。腹が重い。
そんな折り、下の娘が十二指腸潰瘍になった。
大事に至らなかったのであるが、未だに薬の世話になっている。
胃カメラを飲むという娘に「大丈夫だから」と励ましていた。
帰ってきた娘は以外とケロッとしていたので、胃カメラってこんなものかと思い、やっと医者に行く決心が付いたのである。
医者に行くと、胃カメラ飲んで検査しましょう。簡単に云う医者。「今度の4日の月曜日、10時からね」
今日10時に病院に行く。
待合い場所に行くと、知り合いの人ばかり。「宮司さんどうしたんですか。」「胃カメラ、簡単簡単」
その様に励まされるが、先に検査した人の顔を見るとどうも違う。何か苦しそう。
私の番が回ってきた。
「始めに、胃の動きを止める注射をしましょう。はい腕を出して」「次ぎに之を飲んで下さい」「胃の中のガスを抑える薬です」
「次ぎに、之を口に含んで、飲むと駄目ですよ。のどを麻痺される薬です」
「2分ほど含んでますと、のどが痺れてきますから」
痺れてきたよ。看護婦に云われるままに、ベットに横向きに寝る。女の先生が、「良いですか。気持ちをゆっくりとしてー」
「堅くならないで下さい。」「肩の力抜いてー」
肩の力抜いてるわ。何処までそのチューブ入れるねん。おっえぇーー。
「もうすぐですよ」「もうすぐ胃に入りますよ」
早くしろ。ウエェ。目から涙。嗚咽。勘弁してくれー。
云える分けない。俺の口にはチューブが入ってる。オウエェー。
吐きそう。でも何にも出ない。出る分けないよな。昨日の晩から何も食べて無いんだから。
チューブの先が胃の中にはいると、少し気分の悪さが無くなった。
ところが「次は十二指腸を見ますね」と云いながらチューブを回す。
腹の中でチューブの先が回っているのが分かる。又嗚咽。
「この子えらい堅くなってるわ。肩の力抜いてー」
バカタレこの子て云われる筋合いあるか。俺はお前より年上じゃ。と云おうとしても、声出る分けない。
「さー終わりますよーーあぁ、あれ・・・・もう一度見ますね」
出しかけたチューブもう一度入れるな。えづきながら涙を出してる私。この姿自分で見たら情けないだろうな。
もうこんな事二度と嫌だーと叫ぼうとするが、叫べるわけがない。
何分ぐらい経っただろうか。やっとこさ終わる。
終わって先生と看護婦の会話「男は駄目ね。」(ほっててくれ)「大きな体してるのに」(ほっとけ)
口を濯いで先生に呼ばれる。
「胃の方荒れてますけど、何もなかったですよ」「今の薬続けて飲んで下さい」
「内科の予約取っておきますから、詳しくは内科の先生に聞いて下さい。」
ああぁ、こんな事、二度といやです。
情けないよ。
偉そうなこと云っているけど、娘がこの状況を見たら、「お父さん情けないよ」と云われそうである。
もし私が病気に成って死の宣告でもされたら、気が狂うかも知れない。のたうち回り「助けてくれと」言い続けるだろう。
体は大きくても、気の小さい「あかんたれ」の私である。悟なんて到底出来ない私である。
賽銭もお供えもしないで、一番神様に手を合わせているのは、私かも知れない。


1日(金)晴
今日は月の始まりです。今年も余すところ90日余りです。
月のおわりには必ず賽銭を出します。本来は毎日出しまして日勤に書き込まなければ成らないのですが、布忍神社では10日に一度の割で出しています。
ところで、皆様は賽銭がどれ位あると思いですか。知りたいでしょうね。別に隠すものでもないので教えましょう。
平成11年度の賽銭収入は3,427,560円でした。これは役員会にて承認され、総代会に報告したもので神社の収入です。
付け加えますが、私の個人収入ではありません。
神社の規模、人口密度にもよるでしょうが、これは多いとお思いですか。少ないとお思いですか。
私は少ないと思っています。
本来神社には氏子という人は居ますが、信者という人がどれだけいるかと言うことです。
何か財布の掃除をしているように思います。
皆様、自分のことを考えて下さい。お宮に詣って幾ら賽銭を上げますか。年間どれだけお詣りしますか。
年間神社にどれくらいの金額を奉納してますか。
ある新興宗教の1人の寄進額はその家の1ヶ月の収入です。それも喜んで寄進するのです。
まさに宗教産業です。マインドコントロールされると恐いですね。
お宮にいますと音で分かるんですよ。
音の無いのが一番よい。お札ですから。
音の軽いのは1円玉かなと言うようにね。
皆様、この神社は一生懸命頑張ってるなと思ったら、1ヶ月に一度は最低お札一枚ぐらい入れて下さい。
願い事は沢山すのですから。
こうなると私は、まるでもの貰いですね。

今日はこんな事を書こうと思ったんではないのです。本題に移りましょう。
賽銭にはいろんなものが投げ込まれます。
一旦賽銭箱に入ったものは、どの様なものであれ神社の所有になります。
ある時ダイヤの指輪が出てきたことがあります。おもちゃかなと思ったのですが、どうも本物らしいのです。しかし、余りにも石が大きい。
やはり偽物かと思ったのですが、一様警察に届けました。
警察から直ぐに連絡があり、盗品とのことでした。
持ち主に返すことになりました。しかし警察に法律上所有権は神社側にあるのではないかと云ったところ、警察曰く「そう言ってもね神社だからね。」「そうですね返して下さい」
後日盗難にあった人が菓子折を持って礼に来ました。
後で警察にあの指輪幾らくらいの品物だったのですかと聞くと、「アレね、宮司さん何百万円だって」との答えでした。
菓子折はないだろうと思いました。
数ヶ月後、犯人が捕まって現場検証で来ました。
犯人はあの指輪は足が付きやすいので、この神社の賽銭箱に投げ込んだらしいのです。

結婚指輪も投げ込まれていたことがあります。
男性用の指輪でやはり裏にイニシャルが書かれていたので警察に届けました。
「遺失物で預かりましょうとのこと」取られたと云う届け出もなく、何ヶ月後警察から連絡があり取りに行くと、警察官が「これは離婚でもした男が投げ込んだのでしょう」と云って渡されました。その指輪今はどこかに行ったか分かりません。ものはプラチナとか。
他に色々です。お札・お守りは仕方ないですが、抜けた歯・宝くじ・馬券(総てはズレ)・鍵・恋文・色々です。
新聞紙に来るんだ10万円札の時は驚きました。賽銭箱の上に置かれていたものですから。
盗まれなくてよかったです。これは大歓迎でした。
何度も云いますが賽銭箱に入ったものは、総て神社の所有物です。
時々千円札を入れようと思って、一万円札を入れてしまった。九千円返して欲しいと云ってきます。
バカタレ追い返しますが、引っかかる宮司さんが居るらしいです。
昨日賽銭箱を開けると、中から人形に針を刺したものが出てきました。世も末です。
布忍神社には沢山賽銭を入れて下さい。良いことありますよ。
これだけ云えば、来年の決算の時は賽銭増えているかな。又報告します。