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閑谷神社

(しずたにじんじゃ)

鎮座地 岡山県備前市閑谷784閑谷学校内


閑谷学校・閑谷神社
特別史跡 閑谷学校

閑谷学校・閑谷神社
閑谷学校・閑谷神社
閑谷神社

閑谷学校・閑谷神社
閑谷学校講堂

聖廟と楷(かい)の木
閑谷学校・閑谷神社

最近私は頼山陽の母の日記を元にした「すっぽらぽんおぽん」見延典子著を読んだ。
江戸時代に於ける儒学について知り頼山陽を始めその家族・姻戚・周囲の人のことを知ると共に、その時代に於ける学問に対する姿勢等を少し垣間見たのである。
閑谷学校のことは歴史で習って周知はしていたがどの様なものかは全く持って知るすべもなかったが、その本の中に閑谷学校のことが記されていた。
一度は行って見たいと思っていたのである。
3月に成って少しは暇になったこともあり、古社を巡ってみたいと、文化財の本を見ていると閑谷神社とあるのを見てそこに行ってみようと思ったのである。
まさか此の閑谷神社が、閑谷学校の付属建造物だとは今回行くまで知らなかった。

出発の朝私は新聞の天気予報欄を見ると、天気予報は寒の戻りというのであろうか、冬型の天気となることを予報し、もしかすれば雪になるのではと車にタイヤチェーンを載せて、我が家を出たのである。

その日は西風が強く、何か空が以上に黄色くもやっているのを見て一体何なのだろうと思いなが一路山陽高速道路を西に向け走った。
昼過ぎにやっと閑谷学校に着いた。
この時私は、先に閑谷学校を見学してのち、閑谷神社に参拝しようと思いながら、駐車場近くになる地図を見て初めて閑谷神社が閑谷学校の敷地内にあることをしった。
閑谷学校・閑谷神社
閑谷学校・閑谷神社
閑谷学校の初めて全貌を見たとき、私はこの様な人里離れた奥地に寛文10年(1670)時の岡山藩主、池田光政が儒学に基づく士庶共学、庶民も含めた平等の教育を目指した事の意義を見た。
閑谷学校の建築様式も素晴らしさはいうまでもないが、制度に於いても現在の教育に於いて見習わなければならないところが多いようも思えた。
閑谷神社は光政の死後建立されるのであるが、孔子を祭る聖廟より一段低く又一回り小さく作られるのであるが、神社と聖廟と光政の遺髪・爪・歯などを納めた円形の供養塔の椿山との位置関係が、私には面白く思えた。
仏教思想ではなく儒教思想が色濃く現れているように思えた。
聖廟の二本の楷の木が赤く色付く秋にもう一度来たいものだ。

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