私は高校生活を南河内の富田林市で過ごした。
今から35年も前のことである。
今とは違い、田園風景の広がるほのぼのとした風景であったように思う。
何故か、我が学年に私を入れて5名の神社の息子が居たのには、驚かされてしまう。
そうしてお寺の住職が、教師で社会を習っていた。
この教師お寺の坊さんだけあって、説教の語り口調で授業をする。
富田林は寺内町であり、江戸時代まで河内源氏縁の通法寺という寺があったが、明治になって廃仏毀釈で三日で何もかもなくなった話し。
「お前等、聖徳太子の墓は何処にあるか知ってるか」
「法隆寺」とある生徒が答えたのを「馬鹿たれ、そこに有るんや。そこに、太子町の叡福寺や」
やれ小野妹子墓は二上山の麓に、竹ノ内街道が日本で一番古い街道とか、楠木正成にいったては我がご先祖のような話しになる。
「ここが、河内飛鳥というや、わかったか」「ここは奈良の飛鳥より古い」と言うのが自慢。
特攻帰りのこの坊さん兼教師に、私は高校1年が始まって2回目の授業で黒板に向かって立たされた。
何が原因か未だ分からない。
通法寺の小さなお寺の住職であったこの教師、一途に河内大好き教師だったのであろう。
壺井八幡宮はこの地の氏神となす社と、河内源氏三代の源頼信、源頼義、源義家を祀る社の2社から成る神社である。
通法寺近辺にはこの三代の墓もある。
高校時代は絶好のデートコースで在ったわけで、良く女子学生を連れて遊びに行ったものである。
そのころの壺井八幡宮は大変荒れていた。
その壺井八幡宮が平成元年の造営を持って甦ったのである。
宮司の苦労は並大抵のものではなかったと思う。
今も奥さんと二人、黙々と境内の掃除をしてる宮司を見ると頭の下がる思いである。
そうして、この高木宮司が私と高校が同じであったことを誇りに思うのである。