「子」平成8年(1996)  
  「子」 1996年 奉納絵馬小冊子  
  「子」1996年 奉納絵馬小冊子表紙  
  「子」 1996年 絵馬奉納者名簿  
  「子」 1996年 奉納絵馬一部  
  絵金(えきん)さん、絵馬(えんま)さん
                                                鍵岡正謹
 土佐の高知に「絵金」と呼ばれる町絵師がいた。
 髪結いの息子に生まれた金蔵は、画才を認められて藩主の姫君の駕籠かきとなって江戸に行き、狩野派を学び土佐藩の御用絵師まで登り林洞意となった。ところが狩野探幽の贋作を描いたといわれて失脚、一介の町絵師金蔵こと、絵金と呼ばれた。
 時は幕末、あの激動する政治の季節、土佐藩は西南雄藩であり、お上(カミ)と志士たちは死闘をくりかえしている。そんなお上の世界を脱けだした金蔵は、下地(ゲチ)(庶民)の花である歌舞伎にどっぷり耽り、やがて芝居絵屏風といわれる独得の絵画を完成させる。
 絵金が創意工夫し考案した芝居絵屏風は、歌舞伎狂言の主要な場面である「見得(ミエ)」を切ったシーンを全面に描いて、背景にはその狂言の各場面を描いて一枚の屏風絵に描き納める独得なスタイルであった。「同図異時法」と呼ばれる。魔術的な時間と空間を一種の遠近法として描く独得なものであった。
 狂言はとりわけ幕末の庶民に好まれた血腥い場面が多く描かれていて、血しぶきが飛びちり、女(女形)が責められ、怨念がこもる生々しいシーンが、血赤と呼ばれる赤色と青緑色、それに力強い墨の隈どりで描きだされる。しかしそれはどこか諧謔味あふれたエロスがある。
 こうした芝居絵屏風は、町の人たちに歓迎され、「土佐芝居絵」となって多量に制作されつづけ、昭和初期までつづいていた。それは神社に奉納される村芝居(地芝居)の絵看板が独立して屏風絵となったのか、あるいは寺社の夏祭りの宵を装る絵画型の提灯に芝居絵を描く絵馬提灯が発達したものだとも考えられる。いずれにしろお上が禁止した歌舞伎にとって替わり、義太夫が屏風絵の前で狂言を太棹に合わせて物語る「絵解き芝居絵」であったろう。こうした屏風絵を飾るために「台提灯」と呼ばれる、これまた独得の舞台装置が宮大工によって作りあげられた。
 土佐の夏を彩る夏祭りには、現在もこうした台提灯に飾られた芝居絵屏風がみられる。それは神社の参道にすえられ、その下をくぐりぬける形式のものや、神社の拝殿のような形式で飾られたり、二曲一隻の屏風絵を商家の町並みの軒下に飾られたりする。おどろおどろしい芝居絵は夏の闇のなかで蝋燭の光りに照らしだされて息づき、怪しい光りと闇の絵世界となる。
 絵金はこうした芝居絵を制作するために、工房のようなものをもらっていたらしい。絵金工房のもとには、町や村の紺屋と呼ばれる染物屋や、絵馬を専門に描いていた絵馬屋などの職人がいた。彼らは注文をうける屏風絵をはじめ、フラフと呼ばれる土佐独得の五月のぼり、祝い絵、嫁入りのために作られる蒲団、うちわ絵、土佐凧に押絵、それに絵馬提灯や絵馬などを制作する、絵師の職人集団であった。
 やがて彼らは各地に散りまた居ついて町絵師となり、土地の人たちから「絵金さん」と呼ばれる、絵を描くオンチャン(おじさん)であった。
 彼らの使った絵具は、泥絵具である。闇のなかで怪しげに輝く泥絵具の芝居絵屏風には、浜辺からひろった貝殻をつぶしてまぜた、不思議な光を放つものもある。泥絵具はまた村芝居の舞台で書割りに描くそれであり、絵馬提灯や絵馬の絵具でもあった。
 神社の拝殿には、今も絵馬が多く残され飾られている。おなじみの有職故実画や風俗画、神馬図らのなかに、土佐独得の捕鯨図や歌舞伎絵もある。わが絵金も洞意や友竹の号で絵馬を残しているし、弟子ともいわれる幕末の志士・武市半平太の風俗図絵馬もある。半平太は美人画が得意であった。また坂本龍馬を開眼させたといわれる絵師で、絵金の弟子とも友人ともいわれる河田小龍は芝居屏風絵も絵馬も伝えられている。
 また絵金の弟子である絵馬屋の彼末提馬は、高知にとり象徴的な山である五台山の麓で絵馬屋を営み、維新後もちょんまげを切らずにいた奇人で、一渓の号で多くの絵馬を残している。彼ら専門の絵馬職人も「絵馬さん」と呼ばれ親しまれた絵描きであった。
 彼ら町の職人絵師たち、「絵金さん」「絵馬さん」はもう居ない。何処へ行ったのだろうか。(高知県立美術館館長))
 

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