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「亥」 1995年 奉納絵馬小冊子 表紙 | ||
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とどかぬ思い 北野さんには、「〜高校に受かりますように」「〜大学合格祈願」などと書かれた絵馬が一つの釘にどっさり、いまにも落ちそうな重い房のように吊されている。それがまた何列にも何段にもなっていて、最下段、地べたすれすれのところしか掛けるとこがなかった子どもはかえって不安になるだろうなとおもう。受験校がどっさり記入してあって、こんな浮気っぽい子に神様は情けをかけるのだろうかと気がかりなものである。でもまあ、わざわざ読みに出かけるようなものでもない。 ところが、祇園裏にある安井の縁起り祈願のほうは、どんな札が掛かっているかなと気になって、通りがけに立ち寄ることがある。俄然多いのは、夫が愛人と別れさせたいという妻の祈り。息子を恋人から離したいという母の祈りが意外に多くて、これはちょっとこわい。縁切りということで、ほかにも病気から解放されたいという願いや、酒断ち、禁煙、それに賭け事、盗みなど悪癖から切れたいという願いも多い。これは男性に、だ。 先だって訪れたときは、これまでにない強烈なのに出くわした。まず、真っ黒の紙で折った千羽鶴がどっさり二束。それに、夫が撮ったらしい夫の愛人のスナップ写真五枚ほどの上に、呪い、恨みの言葉をサインペンでぎっしり書き込んで、愛人の顔が見えなくなったもの。これには思わず目を伏せた。 若い知人のひとりは、ぼくがこの話をすると意外な反応をした。禁煙とか禁酒なんてつまんないことを願うのはほんとうは本気で願っていない証拠。その点、女のひとの呪いは本気だ。信じよう。信じようとおもっているうちに、ほんとにそのことが起こってしまうという恐ろしさを信じてる、というのだ。 願いが届くことをほんとうに願っているのか否や。その差は絶対だ。しょせんは迷信だとのたまうなかれ。 こんな例を読んだことがある。ことばが届くという経験についてである。竹内敏晴さんが『ことばが劈かれるとき』という本のなかで紹介している「話しかけのレッスン」がそれだ。ある人が別の人に後ろから声をかける。うしろから声をかけられた人は、その声がじぶんに向けられたものか、じぶんの何歩か後ろにいる人に向けられたものか、さらにはじぶんの頭を取り越してもっと遠くの人に向けられているか、かなり明確に分かるという。なかには「声が背中にさわった」、「耳にさわって前に抜けた」、「あ、ドンと当たった」と報告するひともいるそうだ。それほどたしかな感覚があるのだろう。 そこで竹内さんは言う。 「話しかけるということは相手にこえで働きかけ、相手を変えることである。ただ自分の気持ちをしゃべるだけではダメなのである。一般にはことばは感情の発露だと考える傾向が多いようだ―もちろんそういう場合もある。だがそれは自分のからだが閉じられている場合である。言うだけ言えばいい。相手がどう思おうと、言いっぱなし、という場合が多いのは、からだが他人(他者)に向かって劈いていないのいのだ。」 願いもたぶん、そうなのだろう。たんなる思いではなく、じぶんを相手のもとに届けたいという切なる願いでなければ届きはしないだろう。ほんとうに訴える眼は、だれのもんmであっても、見るひとを突き刺してくるように。それはじかに見えなくとも、背中でじゅうぶん感じられるものだ。そして、絵馬に込められた思いはその背中に向かう。 相手が不在のとき、思いはまっすぐそのひとに向かう。願いはそのときもっとも凝縮される。目の前にそのひとがいたら、かえって意識はもつれたり、屈折したする。電話やポケベルですぐに気持ちを届けてしまうと、願いは疼くより先に溶けてしまう。たぶんいまは、目の前にいないひとに向かって、胸を焦がす、そういう経験が起こりにくい時代なのだろう。でも、初恋の思い出にしたって、一度も言葉を交わすことなく、片思いに終わったもののほうが、いつまでも心のどこかでひりひりと疼いているものだ。そう、他人の背中に向けて発した祈りの言葉(呪いとは過度の祈りのことだ)、とどかぬ思い。その切ない思い出の一片が、人生がふんづまりになったときに、いのちの最後の水となるかもしれない。 お社の夜は、そういう声にならぬ声で満ち溢れている。 (大阪大学助教授・哲学 |
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以上の文章は「亥」1995年開催の絵馬展に鷲田清一より寄稿戴き「亥」出展小冊子に記載されたものです。