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  「巳」昭和64年・平成元年(1989)   
  「巳」 1989年 奉納絵馬 小冊子  
  「巳」 昭和64(1989)年 奉納絵馬小冊子表紙  
  「巳」 1989年 絵馬出展カタログ表紙 題字 高井聖水筆  
  「巳」 1989年 絵馬出展作品 一部   
  絵馬の東西
池上忠治
 
   絵馬という言葉は、考えてみれば昔から知っている。あちこちの神社などで、絵馬を見たことがある。ただし、これまた考えてみればということになるのだが、絵馬という言葉もその実態をも一応のところ知っていながら、絵馬とは何かと自らに問うたことは一度もない。近くて遠いとは、こうしたことなのであろうか。
 絵に描いた馬の姿を社寺に奉納する、それが絵馬だという。もっと昔には生きている馬を奉納したものだという。そう言えば、神社によっては今でも゜神馬゛がいて、馬小屋で怠屈そうな顔をしている。元来は神官などが神馬に乗って田野を疾走したのであろうか、でも一体何のために?それはそれとして、実物でなく実物の絵姿を奉納するというのは、考え方の゛すり変え´゛として面白い。戦闘や労役のために必要な馬そのものを、何も神聖にして無用な馬として手離すことはないのである。
 古代のアッシリアや中国では、王が死ぬと、その墓の周辺に部下や動物たちを生きうめにしたらしい。日本でも、埴輪などは恐らくそうした風習の残存状態を示しているのであろう。まきぞえにされる者の立場からすれば、えらい迷惑である。そこで、すり変えすなわち似姿の埋葬あるいは奉納という考えが生じ、これとともに芸術の可能性が生まれる。芸術というものの面白さとうさんくささは、共にこのあたりにある。
 数年前にスイスの山村にある教会で壁画や浮彫をしらべたことがある。ふと気がつくと、小さな礼拝堂のような部屋の壁に、手や足が沢山ぶらさがっていて、一瞬おどろいた。みな木で作られていて、ほぼ実物どおりの大きさである。つまり立体作品というわけだが、教会の尼僧にたずねたところ、怪我などの治癒を祈願する奉納物だという。作品は新旧いろいろだったように思うが、今は記憶も明瞭でない。
 しかし、はっきりしているのは、東西いずれにせよ人の考えることはさほど変わらない、という点である。安全な航海ができますように、受験に合格しますように、濃いがみのりますように、病気が直りますように、近ごろ日本でも小さく手軽な絵馬はいくらでもあるではないか。スイスで私の見たものが立体作品だったことは、西洋人のリアリズムを示すように面白かったが、もっと古くはパリのノートル・ダム大聖堂などに、いろいろな同業組合がが毎年五月に絵を寄進する習わしがあった。当然それは宗教画で、今日に残っているものもある。寄進・奉納の精神のありかたからして、それは日本の伝統的な絵馬の場合とほとんど変わりがない。さて、今回は多くの方々の手になる、どのような絵馬が寄せられることであろうか。(神戸大学教授) 
 
   以上の文章は「巳」1989年開催の絵馬展に池上忠治氏より寄稿戴き「巳」出展冊子に記載されたものです。  
     

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