布忍入姫命 
 布忍(ぬのせ)という地名について

当神社に社名扁額「布忍宮」は高泉性敦 寛永10−元禄8年(1633−95)筆によるもので300年前には布忍という地名が現存していたことが分かります。新撰姓氏録に河内国皇別には「布忍首、的臣同祖、武内之宿禰之後也」とあります。
 布忍神社との関係は定かではないが、素直に考えて河内の国、布忍首(おびと)と言うものから考え何らかの関係があったと思われます。
 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は平安時代の諸氏の系譜集成。弘仁6年(815)成立。京畿の1182氏を、皇別・神別・諸藩の分類し、各系譜を記したものです。
 故に815年には布忍という小豪族が居たようであります。

 布忍神社の祭神

 布忍山東坊縁起には、「人皇52代嵯峨天皇の勅願によって弘仁5年甲丑歳(814)弘法大師再建の伽藍、本堂薬師如来、金堂観自在尊、五重塔大日如来、鎮守牛頭天王(ちんじゅごずてんのう)三宝荒神(さんぽうこうじん)春日大明神(かすがだいみょうじん)を布忍7ヶ村の産土神と崇め奉る」と、あります。
当神社は、明治以前は祇園社として牛頭天王を御祭神としていました。また、本殿の蛙股より薬師如来を表すボン字が在る事からも分かるように神仏混合時代においては、薬師仏も合祀されていたと思われます。

 日本書紀に布忍の文字が・・・・・。

 この度、驚くべき事に日本書紀巻第7 景行(けいかう)天皇 51年正月−52年5月」の段に、「始め、日本武尊、両道入姫皇女(ふたち゛のいりびめのひめみこ)を娶(め)して妃(みめ)として、稻依別王(いなよりわけのみこ)を生(う)めり。次に足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこ)。次に布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)。次に稚武王(わかたけのみこ)。其の兄(いろえ)稻依別王は、・・・・・・。」と、記されています。
両道入姫皇女は、垂仁天皇の娘であり。足仲彦天皇は仲哀天皇であります。
上記の日本書紀におけることは、私も不勉強のため今日まで分かりませんでした。布忍入姫命は古事記には記載されておらず、定かではありませんが、「ぬのし」が語尾変化して「ぬのせ」と成ったのではと思われます。
江戸時代の歌に布瀬という文字が出て来ることにより、布瀬(ぬのせ)に布忍を、当てはめたのではないかという説があるのですが、逆のように思われます。
 また、行基が石原(現南河内郡美原町)布施地をおくと記載されています。これは石原にそれらしき遺構がないところから、布忍付近が布施地であり、布施が布忍と転化したのではという説もあります。当神社に側して鎌倉期創建の永興寺伽藍後があることからです。しかし、これも定かではなく、施が忍に何故転化したかに関して説明しにくい所があります。
 私の知る限りでは、全国において布忍という地名または当神社周辺のみで、神社は当神社のみだと思われます。

 

日本書紀巻第7 景行天皇 51年正月−52年5月

   
 

系図

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