8月31日
今日は雨と決めていたら朝から晴れ、「よし、山だ」さてどこ行くか、中山最高峰(476m)に登ろうと出かけました。いい天気、もう、秋も近い空気も澄み渡って遠くまできれいに見えます。しかし、今日の中山さん、皆さん雨で山に飢えていたのか、堰を切ったようにたくさんの人が来ていました。中でも、女性の独り歩きの多いこと、今日は10人近く出会いました。
中山から見た伊丹、西宮一円 もう秋、空気がきれい、さえわたって見えます。

8月29日
結局サンケイ旅行も北岳登山が中止になりました現地は連日の雨で通行止めだそうです。
これで今年の私の夏山登山も終わりました。不燃焼な年になりました。
8月26日
今日から北岳に出かける予定でしたが、雨のため中止になりました。急遽、サンケイ旅行会の29−31日に鞍替え申し込みました。まだ空き席がありぎりぎりセーフでした。でも、間ノ岳、農鳥岳には行けません。

8月24日
今日は山の会市民ハイク 神鉄谷上駅から石楠花山(653m)を通り新神戸に抜ける14kmのコース。
石楠花山は谷上駅と標高差400mあまり、それ程高くありません、それに気温も山頂では26度とすずしいし、今日はザックも軽くしてきたので何となく気軽なハイキングでした。
私は六甲にある徳川道を資料使って皆に説明してあげました。
徳川道とは
幕末横浜の「生麦事件」のようなことが神戸でも起こらないように幕府が作った西国街道のバイパスです。明石大蔵谷をスタートに六甲山穂高湖まで登り、御影公会堂まで30km余りのコースです。今は所々ハイキングコースに利用されてしますが所詮、急な山道、大名行列が通るとなると大変だったでしょうが、皮肉なことに明治維新になり一度も使われなかった道です。地図は神戸市教育委員会の調査した物を使いました。
ハイキングが終われば決まって飲み会22名の参加です。
帰ると今日は伊丹の花火大会、孫でも来ると現場まで見に行くのですが今日は来ないのでマンションの廊下結構近くに見えるので家を出たり入ったりしてみる程度でした。
明日から北岳3泊4日です。天候が気がガリですが、少しでも晴れることを祈っています。

8月16-17日
サンケイ旅行 御嶽山登山
大阪を7時30分に出発、登山口 田の原到着14:00準備を整え14:15出発。天候はまあーまあーと言ったところ、
ところが、ものの30分も歩いたら雨が降り始めました。雨は次第に強くなり、ここで、1ご夫妻の奥さんがしんどくて付いてこれない、、雨の中で待つのはつらい。しかし、誰も不満を言わない。明日はわが身が分かっている。結局ご夫婦はリタイアー約20分ロス。王瀧頂上2940mに来ると雨はますます強く、風も加わり寒い。体感温度は大阪とは高度差で18度、それに風が1m増すごとに1度下がる、20度以上寒い、15度を切っているでしょう。王瀧小屋を過ぎて剣が峰山頂小屋の軒下を借りて一休み、ガタガタ震えてくる、手は痺れて感覚がない。ザックから物を取り出そうにも感覚がないので時間がかかる。ゴールまで後30分ほど、リーダーは冷静に?「こんな時は補助食糧を持っている人は食べて下さい。着物は一枚でも多く着て下さい」という。もう、どうでもいい「早く出発してくれ」と願う。泊まる小屋に着いた時は18時を回っていました。(予定より1時間遅れ)。着くとリーダーは合羽の上は脱いで入ってください。主は「着たままでいいですから早く入って下さい。」と出迎えてくれる。しかし、リーダーはここでも冷静に「合羽はの上着は脱いで入ってください。」という。お互いの山の礼儀でしょう。違和感はない。この山小屋には珍しく温まるだけの風呂がある。4人ずつしか入れないがありがたい。手のしびれも直り、7時過ぎから夕食8:45消灯。次の日起きるとまだ雨が残っている。また、カッパを着て出発。昨日から景色は全く見えない。いや、一度だけ10分ほど晴れ間がありました。その時の様子は印象的に残りました。あとは、ひたすら下山するだけ。途中は整備されているが、岩場か、板の敷き詰めた上を歩くこれが足に応える。また一名遅れ始める。結局また30分遅れ11時に濁河温泉に下山。苦労の多い登山でした。
リーダーの挨拶「記録より、記憶に残るたびになりましたね。山の厳しさを体験できて次への備えにして下さい」と
私たちは山はこんなものと知っているので悔いはありませんでした。、リーダーからこんな時夏山の凍死が起こることも教わりました。想像以上の厳しさ、いい勉強になりました。写真は一枚も撮れませんでした。改めて挑戦です。


8月12-15日
お盆で綾部の家に帰りました。
16-17日は御嶽山ですが、日が空くとしんどいので、軽くトレーイニング14日は君尾山に登りました。
綾部温泉に車を置いて大栃を見て、君尾山三角点へそれから下山約4時間結構なハイキングになりました。
途中、大栃の木を見ました。(幹周10.4m)
君尾山登山口、小さな看板がありました。 三角点(582m)もささやかかなものでした

8月10日
今回は登山記録を早く纏めようと頑張りました。体調の方はいいのですが、やや、太ももがいたく2−3日ゆっくりしようと思っています。
8月7-9日
火打山、妙高山登山
詳しくは山行記録よりご覧ください。
8月6日
今日から夏山登山第一回、妙高、火打山3泊4日の旅に出発です。やや天候が心配ですがいい写真が撮れたらいいなーと思っています。
8月5日
今日は10月に友達三人と熊本城が築城300年で改装されたのを機に西郷、篤姫などの歴史の旅を計画していますが
その打ち合わせを我が家でしました。お昼冷しゃぶ料理を食べながら計画が決まりました。打ち合わせが終わると
すぐカラオケの話になり行きつけの店に電話、本当は18時からですが「15時に開けて」というと快く?開けてくれていっぱい歌を歌って楽しい一日が終わりました。
8月2日
いよいよ夏山登山。第一回が6日から妙高、火打山です。今日は訓練で六甲と麻耶山に包まれるようにある長峰山に10kの荷物を持って上りました。杣谷から登り長峰山を縦走、また阪急六甲に抜けるのですが、これが688mとそんなに高くないのですがとても急な山で暑さも加わり大変でした。それでも15名全員バテル人もなく下山できました。私は六甲は何回となく登っていますがこの長峰山は初めてでした。写真を撮ろうと思ったらSDカードが壊れていて撮影不能残念でした。

8月1日
読書 
司馬遼太郎 胡蝶之夢 2巻
佐渡商家に育った伊之助は祖父に監禁されるようにして読書して育つ。その記憶力は天才の域を超えている。
医者になるべく、ボンベに学ぶが誰に教わることもなく仏語、独語、英語をその国に住んだかのように覚え話せるようになる。しかし、世間というものが分からず礼儀も知らない。従って、常に社会の外に掘り出されてゆく。
そんな伊之助が主人公だが司馬遼太郎は後記にも書いている通り、主人公はだれでもよかった。
司馬遼太郎が書きたかったのは江戸時代の分限、分際といった細かく区分された社会制度が蘭学という医学の導入過程で崩れて行く様子が書きたかったのである。医学の社会も江戸期は見る患者も分限で決められていた。しかし、そんな医学も漢方でほとんど効くものはなく先祖代代秘伝の薬ととして伝えてきたものである。
蘭学はすべての知識を公開して行く。その過程で分際も身分も消えてゆく。そうした流れが明治維新であることが書きたかったのでしょう。しかも、それは世継のできない、下級武士や農民の次男、三男の必死の努力にがあってこそのことであることもそうである。明治維新はそうした分限を超えた人たちによってなされたことを大いに学びました。
中で出て来る将軍慶喜が無血開城ののくだりも面白い。要するに尊王水戸藩に育った慶喜は朝廷には一切逆らえず幕府を捨てたというのだが。うん、なるほど。  もう一つ、中に、えた、非人の歴史も出てくる。ここでは触れることを止めておきます。
結構長編で登場人物も多く読むのにかなり時間を要しました。