Я не хочу уходить отсюда.


モイカ運河をクルーズする舟

 昼食のためプーシキン市からペテルブルグ市街に戻って来た。ツアーの皆さんとのロシアでの最後の食事は、イサク広場からすぐ近くのレストランで楽しんだ。ウハー(魚のスープ)、ポーランド風スズキ料理、ロシア風パイ料理での食事だったが、乾杯のシャンパンのことがやっぱり印象に残っている。
 ロシアでの最後の昼食では、何と、ペテルブルグで活動している、民族衣装でバッチリきめたロシア民謡・愛唱歌のバンドCARAVAYとアンナ・アルセニエヴァ(ヴォーカル)による生演奏も楽しめた。バンドは日本でもよく知られているロシアの名曲の数々を、素晴らしい音色と旋律でずっと奏でてくれた。
 演奏が始まったときは、食事しながら手拍子も混ぜて演奏を楽しむことに誰もが戸惑っていたが、『ドクトル・ジバゴ』の「ラーラのテーマ」その他馴染み深い曲は皆が口ずさんだり、アンナさんに手を引かれて戸惑いつつダンスに応じた人もいたので、いい雰囲気で食事は進んだ。
 演奏も終わりに近づくと、「カリンカ」や「カチューシャ」といった一気に手拍子が起こる曲となり、その時、少し酔っていた私はアンナさんから手を引かれて、互いに相手の片方の腕と組んで回るロシア式ダンスに興じることになってしまった。一昨日に文学カフェで踊った覚えがどうにか役に立ち?アンナさん共々、皆さんにも楽しんでもらえた。とても楽しかったし、CDも買ったが、あとで他のツアー参加者が撮ったその時の写真を見ると、笑いしか出てこない。
モイカ運河と青い橋、後ろにイサク広場
 南にあるプールコヴォ第2空港に向かうまでのバスの中では、免税になる範囲のお土産についての注意や、次にロシアにくることがあるならといった話題や、ロシア人の習慣「相手のお宅の訪問の際、敷居をはさんで挨拶をしてはならない。悪い前兆になる」「後ろから肩を叩いて相手を呼び止めるのは、相手にとっては悪霊が憑く意味になるので、してはいけない」などといったことを教えてもらった。ほかに現地地図の情報を教えあったりした。また、ウォッカを一緒に飲んだМさんが、「ペテルブルグはいい町だな」とおっしゃったのも覚えている。
 下の巨大な門は、モスクワ凱旋門であるが、南の空港に向かっている状態では、この角度からの撮影は無理である。つまりバスは北に向かったのだが、なぜそうなったのかはご想像におまかせする。
かなりでかい
モスクワ凱旋門
 門は1834年から4年の歳月をかけて造られた。建築家В.П.スターソフと、宮殿広場のアレクサンドルの円柱も手がけた彫刻家Б.И.オルロフスキーの手によるものである。1834年から造られた始めたということは、同年制作のアレクサンドルの円柱同様、対ナポレオン戦争の勝利を記念するための凱旋門だといえそうだ。
 ちなみに現在の門は1958年から1961年にかけて、建築家И.Г.Капцюгと、建築家Е.Н.ペトロヴァによって再建されたものである。
 空港に着くと、名残惜しい気はしたが、前回ほどではなかった。現地ガイドのサヴィーナさんとはここでお別れだったが、私は、バスの中で急いで書いた絵葉書を代わりに日本に出してほしいと、切手代を副えて彼女に頼んだ。ツアー参加者の中でルーブルをUSドルに両替しそこなった人のなかには、「チップ」として、すべてのルーブルを彼女にあげる人もいた。彼女にとってはとてもラッキーだったことだろう。
 帰国の手続きは何もかもスムーズにゆき、ちゃんと通路側の席が取れた。ペテルブルグから関空までは直行便だったので、乗客の殆どが日本人で、行きの飛行機で見かけた団体の人々も多かった。ロシアでの旅程は違えど、出発と帰国便は同じだったのだ。他の団体の人と話すと黄金の環やスズダリが組み込まれたツアーに参加したとのことだった。
プールコヴォ空港
Я не хочу уходить отсюда.(帰りたくありません)
 離陸時はとても晴れていた。機内では現地で買った本や劇場プログラムを整理したりしてゆっくりできた。飛行機は到着予定時刻ぴったりに関空へ着陸した。機内から外に出ると、「蒸し暑い!」と思わず声をあげてしまった。SARSの温度センサーの前を通り、入国のスタンプを捺してもらい、荷物の受け取り場で、添乗員さんとツアー参加者の皆さん一人ひとりにお礼を言った。空港内で時差ぼけの身体を休めていると、阪神タイガース首位のニュースが耳に飛び込んできた……。
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夢想家は、まるで灰の中をかきまわすように古い夢想の数々を掘り返して、その灰の中にせめて火の粉のようなものでも探し出し、その火種を吹き起して、その新たに燃えあがる火で冷えきった自分の心を温め、かつてあれほど懐かしかったもの、胸を震わせたもの、血を湧きたたせたもの、目から涙をふりしぼったもの、華やかに自分を欺いたもの、いや、そのすべてを再び胸に甦らせようと空しく努力するので! ねえ、ナースチェンカ、その結果、ぼくがどうなったかわかりますか? 自分の感覚の一周年記念を催す羽目になったのです。かつてあれほど懐かしく思われたものの一周年記念をね。もっとも、そんなものは実際になにもなかったんですが、だってこの一周年記念というのも、いつだってあのばかげた他愛もない夢想のために行なわれるからですし、そんなことをするのも、そんなばかげた夢想は実際にはありもせず、それを生きのびさせる方法がないからなんです。夢想だって生きのびるものでしょうからね! このごろぼくは、かつて自分なりに幸福だった場所を思い出して、一定の時間にそこを訪れるのが好きになったんです。二度と帰らない過去に合わせて、自分の現在を築きあげるのが好きなんです。その必要も目的もないのに、影のように悄然と悲しげにペテルブルグの横町や通りをさ迷い歩くのです。それはなんという思い出でしょう! 例えば、ちょうど一年前、今時分、同じ時刻に、この同じ歩道をやはり今と同じように孤独でしょんぼりとさ迷ったことを思い出します! あのときも夢想は陰鬱なものでした。以前だって少しもよくはなかったのに、それでもなぜかもっと気楽にもっと安らかに生きられたような気がするんです。
ドストエフスキー『白夜』
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情熱は、対象が実在すると思いこむものだし、夢のなかである土地に恋した者は、その土地をこの眼で見たいと希うに至る。そうでなければ、真摯とは言えまい。ジェラールは純朴だった。だからこそ、旅に出た。マルセル・プレヴォなら、家にじっとしていよう、そんなものは夢なんだ、と呟くところだろう。だが結局のところ、そこには、言い表しえないものだけが、書物にはうまく盛りこめそうもないと思われていたものだけがあって、しかもそれが、書物のなかにとどまりつづけているのだ。それは追憶に似た、漠然としていながら取り憑いて離れない何ものかである。雰囲気、と言ってもいい。『シルヴィ』の、青味がかった、あるいは深紅に染まった雰囲気だ。この言い表しえないものを感じ取れずにいると、私たちは、自分の作品が、感じ取れた人間の作品に比肩できるとまで思いあがってしまう。要するに言葉は同じなのだから、というわけである。だがそれは、言葉のなかにはないのだ、言い表されてはいないのだ、言葉と言葉のあいだに深く混じりこんでいるのだ、シャンティイのある朝の霧のように。
プルースト『サント=ブーヴに反論する』
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地上のしかじかの場所、しかじかの町、言いかえれば、ひとりの人間と同じく名前をもち、諸大陸の表面に完全に同じものは決して見出せない個体であるもの、そして、それを見出すためには絶対にそこまで足を運ばなければならない場所で、私たちに大声でその名を告げる駅員は、それとも知らずに「決して二度と見られないものを愛しなさい」と語りかけているように思える──永遠にそんな町の一部をなす彫像には、もしかしたら芸術作品より普遍的ではないなにかがあるのだ。とにかくその種の彫像は、芸術作品よりもっと強靭な絆で私たちをひきとめる。それは、私たちをいつまでも離すまいとする人々や土地の絆のひとつなのだ。
プルースト(訳者の序文(『アミアンの聖書』))
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 二回目のロシア旅行では、一度目の時よりも、いわゆる旅の哲学につきものの精神的・教育的なものというか、「旅に出て自己成長してきました!」みたいな哲学は薄れて、より見聞を広めるため、ロシアの都市の美しさに魅せられたいがため、そして19世紀のロシアの作家や画家の作品にもっと触れたいという純粋な衝動を満足させるための色合いが強かったです。そういった衝動を満足させたかと、もし問われれば、8割以上満足だったと答えます。
 旅行記では主要な観光地も多く扱っていますが、いくつかは団体写真の背景にはならないちょっとした記念碑の画像や、画像に写ってなくとも文章のなかで、画像の枠外に伸びる通りの名や近くにある建物その他に触れるようにしました。その訳は、例えばトロイツキー橋から伸びるカーメンナオストロフスキー大通りという通りの名を目にしたり聞いたりしたとき、プーシキンが決闘に向かっている時に乗った馬橇と地面の雪が間断ない摩擦によって、無常の音をたてつづける光景を思い浮かべれるような、きっかけになれば、いいなぁと思ったからでした。これは、この旅行に臨む際の、また現地でとった私の行動姿勢ともいえ、路傍の石が訴えつづけている何かを掴みづらいようなとき、その背景にあるものに、想いを馳せられたら素晴らしいと思ったからに他なりません。
 そして現地でしか体験できなかったことを綴りました。ガイドブックには決して載らないことこそ、本当の意味で記憶や印象に残っていることに他ならなくて、プーシキンスカヤ駅の職員のおばちゃんとのやりとり、発音がまずくともアイヴァゾフスキーのことが通じたときのトレチャコフ美術館のカッサのおばちゃんの表情、ロシアの道路元標やドーム・クニーギの前でたかってきた少年、ペテルブルグに着いたときの蜂起広場の濡れていた路面、マクドナルドの盛況の様子、地下鉄ピオネルスカヤ駅の手前でスキンヘッドの青年が私を背後から威圧したこと、エルミタージュの使用されていない暖房機に腰掛けて喋っていた「t.A.T.u.」似のちょっぴりふざけた女性警備員、機嫌の悪かった運転手、札を崩すのが目的と思い込んでプログラムを売ってくれなかったマリインスキー劇場のおばちゃん、そして同行したツアー参加者たちの表情など、旅行記の中では割愛したことも多かったのですが、できるだけ細かいことを盛り込みました。
 こういった夢想や思念や現地ならではの記憶などが昂じて、旅程の経過以上に長くなったような旅行記になってしまいましたが、ここまでお付き合いくださった方々に対し、心から感謝いたします。ご覧下さった方々のなかに、私もロシアに行きたくなった、ロシアの文化について何らかの興味を覚えたという方がいらっしゃれば、作成者としてそれ以上に嬉しいことはございません。ありがとうございました。

2003年12月28日

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